第182話 叡智の対価
破壊された扉の向こう側から、清涼な風が吹き込んでくる。
舞い上がった粉塵が、差し込む光を浴びてキラキラとダイヤモンドダストのように輝いていた。
俺と諒さんは、瓦礫を踏み越え、その未知の空間へと足を踏み入れた。
「ここは……」
諒さんが息を呑む。
そこは、先ほどまでの広大なホールとは対照的な、こぢんまりとした書斎のような部屋だった。
壁一面には古びた書物が隙間なく並び、部屋の中央には質素な木製の机と、一脚の椅子が置かれている。
そして、その椅子には一人の女性が腰掛けていた。
透き通るような白磁の肌。
夜空を切り取ったような長い髪。
先ほどの門番――目隠しをした女神像と同じ顔立ちをしているが、その雰囲気はまるで異なっていた。
石像のような冷徹さはなく、その瞳には慈愛に満ちた穏やかな光が宿っている。
おそらく、彼女こそがこのダンジョンの管理者。
あるいは、それに準じた何かなんだろう。なんならヒュギエイアの名を冠する女神そのものなのかもしれない。
まぁ、そんなことはないだろうけれど。とりあえず女神っぽい雰囲気というか威圧感はあるので、女神と呼ぶことにする。
「荒っぽい訪問者ですね。扉を壊して入ってくるなんて、——の歴史の中で貴方たちが初めてですよ」
彼女は手元の本を閉じ、鈴を転がすような声でクスリと笑った。
怒ってはいないようだ。むしろ、予想外の来客を楽しんでいるかのような余裕さえ感じる。
「正規の手順じゃなくてすみません。ちょっと急いでいたもので」
「ふふ、構いませんよ。過程はどうあれ、貴方たちは『扉』を越えた。それもまた、一つの資格です」
彼女は椅子から立ち上がり、ゆったりとした動作で俺たちの前へと進み出た。
その身体からは、圧倒的ながらも心地よい魔力の波動が伝わってくる。
「試練を越えし探求者たちよ。貴方たちが望む叡智はなんですか?」
問いかけに対し、諒さんが一歩前に進み出た。
真摯な眼差しで女神を見据える。
「我々が……いや、私が望むのは一つだけです」
諒さんは深く頭を下げ、祈るように告げた。
「病める人々を救うための知識。あらゆる疾病を癒やす、そんな『ポーション』の製法をご教示願いたい」
その言葉に、女神は満足そうに頷いた。
「よろしい。その願い、純粋なる慈悲の心と認めましょう」
彼女が虚空に手をかざす。
すると、光の粒子が集束し、一冊の書物が編み上げられていく。
それは紙や羊皮紙ではなく、薄い石板を幾重にも綴じたような、重厚な装丁のレシピだった。
「これに、失われた調合の秘儀がいくつか記されています。ですが——」
女神は意味深な視線を諒さんに向け、その書物を手渡した。
「知ることは、背負うこと。その知識を実現するには、相応の困難が伴うでしょう」
「困難……?」
諒さんは震える手でレシピを受け取ると、食い入るようにページを開いた。
横から覗き見ればバリバリの日本語や英語、ドイツ語でいろいろと難しい文章が書かれてあった。さすがダンジョン。見る人に優しいユニバーサルで、レスポンシブなデザイン。さすダンだ。
諒さんは、凄い勢いでその内容を読み解いていく。
「……すごい。成分の抽出法、魔力の触媒比率、すべてが現代医学とは桁違いだ。これなら確かに、細胞レベルで病巣を浄化できるかもしれない……!」
歓喜の声。
だが、読み進めるにつれて、諒さんの表情が曇り始めた。
「……なんだ、この素材は? 『浄化の聖水』に『黄泉の
聞いたこともない。既存の植物図鑑にも、魔物素材リストにも載っていない名前だ……」
高度なキュアポーションになるほど、必要となる素材の確保は困難になるわけか。
至極当然な話だけれども、当事者からしたら歯がゆい思いだろう。
レシピがあっても、材料がなければ作れない。
それは絵に描いた餅と同じだ。
絶望の色が浮かびかけた諒さんの横から、俺はそのページを覗き込んだ。
「青い彼岸花……ですか」
レシピに載る花の姿に、俺は記憶を刺激された。
「……似てるだけかもしれませんが、見たことありますよ」
「なに?」
「出雲の黄泉比良坂ダンジョン。あそこは、黄泉の世界を模した環境になっているんですが、そこで似たような花を見た記憶があります」
俺の言葉に、諒さんが目を見開く。
「ま、まさか……本当に存在するというのか……?」
「分かりません。しっかりと把握しながら探索したわけじゃないですから。でも、もしあるなら——」
俺はにやりと笑った。
「育てればいいんですよ」
その瞬間、俺の脳内回路が、夢の『不労所得』実現に向けてフルスロットルで回転を始めた。
(……待てよ? これ、とんでもないビジネスチャンスなんじゃないか?)
製薬業界というのは、莫大な研究開発費がかかる代わりに、一度薬が完成すれば原価率は低く、利益率が極めて高いビジネスモデルだと聞いたことがある。
今回は研究開発の成果であるレシピは入手済み。原材料はウチのダンジョンに自生していたと思うので、実質タダ。
次に、製造担当。ここに「妹のため、患者のためなら不眠不休も厭わない」という超優秀なエリート医師がいる。
そして完成するのは、現代医療でも治せない病を癒やす、市場に存在しない奇跡の特効薬。
——いける気がするぞ。
……売れる。爆発的に売れる。
しかも競合他社はゼロの独占販売。言い値で売れるレベルだ。
ダンジョンで草を育てて、諒さんに渡すだけで、俺が寝ていても遊んでいても、チャリンチャリンと莫大な富が転がり込んでくる黄金のシステムが完成する……!
(くっ、笑うな。耐えろ俺の表情筋……!)
以前、普通のポーションのレシピはバチカンの独占を阻止するために無料で世界公開した。あれは緊急事態だったし、政治的な判断だ。
だが、今回は違う。
暴利を貪るつもりはないが、生産者の技術料と、栽培の手間賃として、多少の
高潔な理想を持つ諒さんも、法外な値段でなければ、「持続可能な医療のため」として納得してくれるだろう。
俺はチラリとレシピの構成に目を走らせる。
内容は全然分からんけど、タイトルと必要素材を見る限り、作れそうなのはエリクサーのような完全回復薬ではなく、ハイ・キュアポーションクラスか。
あらゆる病の治癒までは難しい。
だが、それでも現代医学では治療不可能な難病や、進行した病巣を浄化するには十分すぎる効能だ。地球にとっては、まさに
助かる命がある。
俺の懐も潤う。
社会不安が解消され、世界も平和になる。
(完璧なWin-Win-Winの関係じゃないか!)
もちろん、ダンジョン内での人工栽培が可能かは未知数だ。魔力濃度や土壌、光量など、クリアすべき課題は山積みだろう。
だが、現にそこに「自生」しているのなら、環境の再現さえできれば栽培できる可能性は極めて高い。
農業スキルはないが、俺にはダンジョンそのものを管理・改変する権限があるのだから。
これは、金のなる木――いや、金のなる草だ。
俺の目は、レシピの向こうに広がる輝かしいスローライフの未来を幻視していた。
「そ、育てる? 神話級の植物をか!?」
「ええ。俺には専門的な農業スキルはありませんけど、育てられそうなダンジョンにアテはあります。土壌を改良し、魔力を注げば、栽培できる可能性は十分にあるはずです」
俺の提案は、農業未経験者の楽観論かもしれない。
だが、不思議と「できない」気はしなかった。
「ダンジョンで栽培、か……」
諒さんはレシピを強く握りしめた。
困難な道だが、決して不可能ではない。
彼は覚悟を決めたように頷くと、背負っていたザックを下ろし、レシピを丁寧に仕舞う。
「……分かった。賭けてみよう、その可能性に」
彼はザックのバックルをしっかりと留め、再び背負い直す。
その背中には、人類の未来を変えるかもしれない重みが乗っていた。
「ありがとうございます。この叡智、必ず役立ててみせます」
「ええ。期待していますよ、人の子らよ」
女神は優しく微笑み、そして――その姿がふっと薄くなり始めた。
「役目は果たされました。……さあ、お行きなさい。帰り道は、少々騒がしくなるでしょうが」
彼女の言葉が消え入るのと同時に、部屋の照明が落ちるように、周囲の空気が一変した。
穏やかだった白光が、警告を示すようなドス黒い赤色へと染まっていく。
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