第180話 選択

『——問おう』


 女神像の声が、静寂のホールに響き渡った。


『ここに、一本の霊薬エリクサーがある。あらゆる病を治癒する奇跡の薬だ。だが、量は一人分しかない』


 石像の手のひらに、幻影の小瓶が現れる。

 そして俺たちの目の前に、二つのホログラムが浮かび上がった。


『患者は二人。

 一人は、未来ある天才児。可能性は無限大の幼子。彼が生きて大人になれば、数多の発明で世界を豊かにするだろう。

 もう一人は、魔を討つ英雄。彼は現在進行形で多くの魔物を屠り、その武勇で何万もの人々を脅威から守っている』


 女神像は、冷徹に告げた。


『両者とも、その薬がなければ死ぬ。

 汝、医師として、どちらに薬を与える?』


 究極の選択。

 いわゆる『トロッコ問題』の亜種であり、医療現場における『選別トリアージ』の極限形だ。

 諒さんの顔色が、一瞬で青ざめた。


「……っ」


 彼は脂汗を滲ませ、震える声で呟く。


「……未来の可能性を取るなら、子供だ。QALY質調整生存年の観点からも、残された寿命が長い者を優先するのが合理的だ……」


 だが、と彼は言葉を詰まらせる。


「しかし、現時点での社会的損失を考えれば、英雄だ。彼が死ねば、防波堤が消え、彼が守るはずだった多くの命が失われる。功利主義的には彼を生かすべきだ……だが、命に優劣をつけるなど……」


 諒さんの思考がループしているのが分かる。

 医師だからこそ、命の重さを知っているからこそ、選べない。

 どちらを選んでも、彼は「もう一方を見殺しにした」という罪を背負うことになる。


『答えられぬか。時が過ぎれば、両者とも死ぬぞ』


 女神像が追い打ちをかける。

 諒さんが苦悶の表情で膝をつきかけた。


「あのさ」


 俺はポケットから手を出しながら、前に出た。


「前提がつまんないんだよな、あんた」

『……何?』

「どっちも助ければいいだろ。薬が足りないなら作れば良いし、それができないなら別の手段を考えれば良い。なんで最初からどちらか一方って決めつけるんだ?」

『……愚かな』


 女神像の声に、侮蔑の色が混じった。


『矮小な人間よ。できもしない理想論を囀るな。したり顔で皆そう言うが、現実は非情だ。リソースは常に不足し、奇跡など起きない。だからこそ、人は血を吐く思いで「選択」をするのだ』


 目隠しの上からでも、女神像の瞳が赤く輝いたのが分かった。


『——ならば試してみよ、口先だけの男よ』


 目隠しをした女神像の唇が、冷酷な弧を描く。

 その言葉を合図に、周囲の純白の世界がねじ切れるように歪んだ。


 何もない空間から、突如として二つの禍々しい影がせり上がってくる。

 それは、見る者に根源的な死の恐怖を植え付ける、巨大な処刑装置――断頭台ギロチンだった。

 磨き上げられた鋭利な刃が、重力に逆らって高く吊り上げられ、今にも振り下ろされようと鈍い輝きを放っている。


 そして、その刃の下には、二人の女性が拘束されていた。


「さ、桜!? それに白雪君!?」


 諒さんの悲鳴に近い絶叫が響く。


 右側の断頭台には、桜がいた。

 手足を光の鎖で台座に固定され、身動きが取れない。首元には無慈悲な拘束具が嵌められている。

 突然の状況に理解が追いつかないのか、その顔は蒼白だ。震える瞳が、俺たちを見つけて大きく見開かれる。


「ひろくん……? お兄ちゃん……? え、なに、これ……動けないよぉ……っ」


 恐怖に震える声。必死に涙を堪えているが、その細い身体は小刻みに震えている。

 その姿を見ただけで、諒さんの理性が崩壊しかけるのが分かった。


 左側の断頭台には、白雪さんがいた。

 彼女も同様に拘束されているが、その表情は冷静さを保とうと努めていた。だが、額には冷や汗が滲み、呼吸が浅くなっている。

 彼女は自分の状況よりも、俺たちの動揺を案じるように気丈に叫んだ。


「し、柴田さん、大丈夫です! これは幻影です……っ!」

『幻影か、あるいは本物か。それを確かめる時間があるかな?』


 女神像が嘲笑う。


『右を助ければ、連動して左の刃が落ちる。左を助ければ、右の刃が落ちる。

 同時救出は物理的に不可能。

 さあ選べ。愛する女か、有能な部下か。どちらかしか救えぬ絶望を味わうがいい』


 女神像が指を鳴らすような仕草を見せる。

 吊り上げられた二つの刃が、カチリと音を立ててロックを外された。

 もはや一刻の猶予もない。


 諒さんが「やめろぉぉぉっ!!」と叫び、髪を振り乱して駆け出そうとする。

 だが、彼の足では到底間に合わない。どちらへ向かっても、もう一方が死ぬ未来しか待っていない。


 絶望的な状況。

 しかし——。

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