第178話 迷宮の患者たち
書庫の回廊を、二つの足音が響く。
一つは、自信に満ちた革靴の音。もう一つは、忍び足のような、気配を殺したスニーカーの音だ。
「いいか? 絶対にポケットから手を出すなよ? お前の殺気が漏れただけで警報が鳴りそうだからな」
「善処します……」
先頭を歩く諒さんの背中に、俺は力なく答えた。
四度目にしてようやく、俺たちは最初のエリアを突破し、ダンジョンの奥へと進んでいた。
現在の俺の役割は『空気』だ。
両手をズボンのポケットに深く突っ込み、視線は足元へ。呼吸は必要最低限。
俺は人間ではない。ただの二酸化炭素排出装置だ。私は貝になりたい。そう自己暗示をかけ、ひたすら諒さんの後ろをついて歩く。
情けないが、これがこの叡智の書庫における最適解なのだから仕方がない。
周囲の書架は静まり返っている。
だが、耳を澄ますと、完全な静寂ではないことに気づく。
どこか遠くから、苦しげな呻き声や、軋むような異音が聞こえてくるのだ。
「……空気が悪いな」
諒さんが眉をひそめた。
甘やかな古書の香りに混じって、どこか腐敗したような、あるいは焦げ付いたような不穏な熱気が漂い始めていた。
その発生源は、すぐに現れた。
「……なんだ、あれは」
通路を塞ぐように、巨大なスライムが鎮座していた。
だが、通常のスライムとは明らかに様子が違う。
その身体はドス黒い赤色に変色し、ドクン、ドクンと不規則に脈打ちながら、周囲の空気が陽炎のように揺らぐほどの高熱を発している。
ジリジリと、近くの書架の本が焦げる音が聞こえるほどだ。
(……炎属性のスライムか? いや、それにしては粘度が低い)
俺の思考が、いつもの攻略脳に切り替わる。
炎属性の魔物ということで、きっと氷属性が弱点だろう。まぁ俺の場合は属性無視でも魔力の圧だけで、コアごと粉砕できるか。
無意識の内にポケットの中で指を動かしかけるが、慌てて理性がそれを押し留める。
危ない危ない。また怒られるところだった。
「おい、手を出すなよ」
俺の慌てぶりに何かを察したのか、諒さんが鋭い声で制した。
彼はスライムから一定の距離を保ち、その目を細めて観察する。
「……攻撃色ではないな。あれは威嚇しているんじゃない。苦しんでいるんだ」
「苦しんでいる?」
「ああ。マグマスライムにしては色が薄い。あれはおそらく通常種が『炎症』によって発熱を起こしているんだ。何らかの原因で体温調整機能が暴走し、自身の熱で体内の水分バランスが崩壊しかけている」
スライムが炎症? と色々疑問に思う部分もあるが、そんな俺には構わず、諒さんは白衣のポケットから、一本の短いメスのような杖を取り出した。
先端にクリスタルが埋め込まれた魔道具の一種だろう。
「下がっていろ。……少し冷やしてやる」
彼は杖を構え、静かに詠唱した。
「
放たれたのは、攻撃的な氷の礫ではない。
患部を優しく包み込むような、白く冷ややかな
霧はスライムの全身を覆い、荒れ狂う熱を静かに奪っていく。
ジュウウウ……という音と共に、白い蒸気が上がる。
やがて霧が晴れると、そこには透き通った美しい青色のスライムがいた。
ドクンドクンという激しい脈動は収まり、穏やかな波打ちへと変わっている。
スライムは、プルプルと感謝するように身体を震わせると、ゆっくりと端に寄り、道を譲ってくれた。
「やはりな」
諒さんは杖を収め、確信に満ちた声で言った。
「このダンジョンの魔物は、敵ではない。『患者』だ。彼らは『病状』を模している。倒すのではなく、適切な処置をして鎮静化させることこそが、この迷宮の正解ルートだ」
「なるほど……さすがお医者さん」
俺は感嘆の声を漏らした。
確かに癒やしの女神が作ったダンジョンなら、殺し合いを求めるはずがない。
求められているのは「暴力」ではなく「治療」なのだ。
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