第177話 叡智の書庫
黄金色の渦に身を投じた瞬間、俺たちの視界は極彩色の光に塗り潰された。
三半規管が裏返るような浮遊感。
重力と方向感覚が喪失し、身体が粒子となって再構築されるような奇妙な感覚。
だが、それも一瞬のことだった。
「……ほう」
隣で、諒さんの感嘆の声が漏れる。
光が収束し、俺たちの足裏が硬質な床を踏みしめた時、目の前には想像を絶する光景が広がっていた。
「これが……ヒュギエイダの書庫?」
そこは、無限に続く『知』の回廊だった。
見渡す限りの視界を埋め尽くすのは、天を突くほど巨大な書架の列だ。琥珀色のニスが塗られた重厚な木製の本棚が、まるで摩天楼のように彼方まで連なっている。
遥か頭上には星空のようなドームが広がっているが、星の代わりに無数の『文字』が瞬き、シャンデリアのように淡い光を降り注いでいる。
空気の匂いも違った。
古書特有の、乾燥した紙とインクの香り。それに加えて、どこか甘やかなお香——というよりは
静寂。しかし、完全な無音ではない。
パサ、パササ……という羽音のような音が響いている。見上げれば、羊皮紙の群れが渡り鳥のように列を成して空を飛んでいた。
「ヒュギエイアの書庫、か。
ヒュギエイア——癒しの神の名を冠する書庫とは、趣が深い」
なるほど。癒しの叡智の保管庫という名に相応しい、神話的な空間だ。
「……美しいな」
諒さんは医師らしく冷静を装っているが、その瞳は少年のように輝いている。
俺もまた、この幻想的な光景に息を呑んでいた。
改めてダンジョンの異常さ、神秘さを目の当たりにした感じだ。
洞窟だけではない、様々なカタチをしたダンジョン。一体この存在はどこから生まれてきたのか——。
答えの出ない問いに迷い込む前、ふと、俺たちの目の前に、一枚の石碑が立っていることに気づいた。
入り口のゲートを守るように鎮座するそれは、黒曜石のように滑らかで、表面に黄金の文字が刻まれている。
『汝、叡智を求めるならば、蛮勇を捨てよ。暴力は野蛮なり』
簡潔にして、絶対的なルール。
それを読んだ諒さんが、ふむ、と顎に手を当てた。
「なるほど。『一切の暴力行為を禁ずる』ということか。物理的な力ではなく、知恵と知識で道を切り拓けと」
「みたいですね。戦闘がないなら楽勝だ」
俺は気楽に構えた。
魔物との命のやり取りがないなら、ただの探索だ。ピクニック気分で奥へ進む。
突如、近くの書架がわななくように震え、硬質な木材がぶつかり合う荒々しい音が響き渡った。
分厚い魔導書が一冊、弾かれたように飛び出してくる。
それは空中で表紙を限界まで押し広げると、鋭い牙の生えた口を露わにし、獣のような咆哮を上げて俺の顔面に飛びかかってきた。
「シャアアアアッ!!」
「うおっ!?」
魔物がいないんじゃなかったのか!?
いや、暴力を禁じるとあるだけで、魔物がいないとはいっていないか。
不意打ち。
だが、数々の死線を潜り抜けてきた俺の身体は、思考よりも早く反応してしまった。
条件反射による
俺は無意識に左手を振り払い、飛びかかってきた魔導書を裏拳で迎撃した。
空気を震わせる鋭い破裂音が響く。
俺の拳が魔導書の表紙を捉えた瞬間、その身は紙吹雪となって四散してしまった。
一撃必殺。
「……あ」
しまった、と思った時にはもう遅い。
頭上で、赤い警告灯のような光が明滅した。
《警告。ルール違反を確認。排除します》
無機質なシステム音声。
次の瞬間、俺たちの足元の床が『消失』した。
「なっ、貴様何をして——うわああああああ!?」
「すみませえええええん!!」
視界が暗転する。
◇
「……おい」
気づけば、俺たちはダンジョンの入り口――先ほど見た黒曜石の石碑の前に立っていた。
どうやらルール違反をした時は、ダンジョンのスタート地点に強制送還されるらしい。
隣には、髪を振り乱した諒さんが、般若のような形相で仁王立ちしている。
「な、なんだったんだ今のは……」
「強制リセットだ! 入り口に書いてあっただろうが! 貴様のその脳には学習能力というものがないのか!?」
「いや、つい条件反射で……次は気をつけます」
俺は平謝りし、再び奥へと進み始めた。
先ほどと同じ場所を通る。
(……いないな)
先ほど俺が粉砕した『魔導書の魔物』。
俺たちが強制送還され、ダンジョンなら復活していてもおかしくないはずだが、その姿はない。散らばった紙片が少し残っているくらいだ。
つまり、『倒した事実はリセットされない』ということだ。
「いいか、次は手を出すなよ。私が考える」
「了解です」
俺たちは慎重に歩き出した。
すると、数十メートル進んだところで、今度はインク壺の形をしたスライム状の魔物が天井から滴り落ちてきた。
「BOOOOOO」
黒い液体を撒き散らしながら襲いかかる魔物。
諒さんが「攻撃するな!」と観察しようとするが、どうやら敵は俺に向かってくるらしい。つい咄嗟に反応してしまう。
(——攻撃はダメだ! 避けろ!)
俺は身体を捻り、魔物の突進を回避し距離を取ろうとする。しっかり諒さんが観察できるように、だ。
だが、その気配りがマズかった。回避行動が大袈裟になってしまったのだ。
ガキッ、と勢い余った俺の肘が、通路脇にあった巨大な書架に直撃してしまった。
分厚い棚板がへし折れ、収納されていた数十冊の本が床に雪崩れ落ちる。
「あっ……!」
「貴様! 何をしている!」
諒さんが叫ぶ。
やばい、器物破損だ。これも『暴力』判定か!?
俺は身構え、天井を見上げた。
しかし、警告音は鳴らない。赤い光も明滅しない。
「……あれ? セーフ?」
「どうやら、設備への接触は不問のようだな。……ほっとしている場合か! 前だ!」
諒さんの声に、俺は視線を戻す。
インク壺の魔物が、再び体勢を立て直して飛びかかろうとしていた。
避けるのはリスクが高い。また何かを壊しかねない。いつ暴力判定になるか分からない。
なら、制圧だ。
(攻撃せず、優しく『拘束』するだけならどうだ? それは暴力ではない……はず!)
俺は魔物を殴るのではなく、柔道の寝技のように優しく地面に押さえつけようと手を伸ばした。
傷つけなければ暴力判定にはならないはずだ。
俺はインク壺の表面を、そっと掴み——。
パリンッ。
……あ。
悲しいよね。俺の握力が強すぎたのか、インク壺があっけなく砕け散った。
《警告。ルール違反を確認。排除します》
「き、きさ——!?」
「ちがっ、優しくしたつもりだったんで——」
暗転。
◇
「……いい加減にしろよ、貴様」
三度目のスタート地点。
諒さんの声の温度が氷点下まで下がっていた。額には青筋が浮かんでいる。
俺は冷や汗を拭った。
「いや、違うんです。今のは不可抗力というか、耐久力の見積もりが甘かったというか……」
「言い訳はいい! 次だ、次!」
三度目の正直となる三度目の通路。
やはり、二回目に砕いたインク壺の魔物は消滅していた。へし折れた本棚も壊れたままだ。
強制送還のペナルティはあるが、排除した障害物や破壊した痕跡は復活しない。
(これ、無理矢理進んでもいつかは最深部に辿り着けるんじゃ?)
そう思うが、すぐに自分の考えを否定する。
いやいや、叡智の書庫だろ。さすがにそんな脳筋ゴリ押しでクリアできる訳はない。強制排除に回数制限があるとか、最後に倒した魔物の分だけペナルティーがあるとか、そんな罠が待っているはずだ。
ここはしっかりとルールを守って臨むべきだろう。
そんな決意をしていると、そこに三体目の魔物――巨大な羽ペンのような槍を持った騎士が現れた。
切っ先を向けて突進してくる。
(攻撃せず、ただ『受ける』だけならどうだ?)
俺は動かなかった。
一切の手出しをせず、ただ魔物の突進を胸の前にクロスした腕で受け止める。
防御しているだけだ。これなら文句ないだろう。
岩盤を鉄槌で叩いたような、鈍く重い衝撃音が響いた。
騎士の槍が俺の腕に突き刺さっ——たと言えるのか。
当たった瞬間、バキバキバキッと音を立てて、槍の方が粉々に砕け散った。
さらにその衝撃の反動が騎士の腕に伝わり、騎士自身の鎧がバラバラに弾け飛ぶ。
俺の身体が硬すぎて、ぶつかった相手が自壊してしまったのだ。
《警告。破壊活動を確認。排除します》
「ふざけんなよ! 立ってただけだぞ!?」
俺の叫びも虚しく、システムは無慈悲だった。
視界が暗転する直前、諒さんが頭を抱えて蹲るのが見えた。
◇
四度目のスタート地点。
もはや怒る気力も失せたのか、諒さんは虚空を見つめていた。
「……帰ろうか、代表。私には無理かもしれない。貴様という特大の
「待ってください! 諦めないでください! もう分かった! もう分かりましたから!」
俺は必死に諒さんを引き止めた。
このダンジョンにおいて、俺のステータスは存在するだけで凶器になる。
触れれば壊れる。受けても壊れる。
つまり、俺に許された行動は一つだけだ。
「次は絶対に手を出しません! ポケットから手を出しません! 息もしません! 空気になります!」
「……本当だな? 次やったら、貴様をここに残し、私一人で行くぞ」
「次は大丈夫です! お願いします、ラストチャンスを!」
俺は土下座の勢いで頼み込み、四度目の再スタートを切った。
どうやらここから先、俺の筋肉は出禁らしい。
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