第175話 鍵と医師のプライド①
翌日。
我が憩いの拠点に、朝一番でチャイムが鳴り響いた。
「おはよう……昨晩は地獄だったぞ」
現れたのは、目の下にうっすらとクマを作った諒さんだった。
だが、さすがはエリート。服装は完璧に整えられ、髪型も乱れ一つない。過酷な労働明けでも、そのイケメンぶりは健在だ。
「おはようございます。お疲れ様でした」
「白雪君……。あの子は優秀だが、少し融通が利かなすぎるな。私の完璧な事務処理能力がなければ、朝までかかっていただろう」
諒さんは桜が入れてくれたコーヒーを優雅に啜りながら、ふぅと息をついた。
もちろん入れてくれた時は「桜ぁ、お兄ちゃんのためにありがとうなぁ! お兄ちゃん嬉しすぎて死んじゃう」みたいな感じで桜にハグしに行きそうになり、全力で距離されていた。
ブレないお兄ちゃんだ。
そんなお兄ちゃんは、カップを置くと同時に、纏う空気をガラリと変えた。
兄としての顔ではない。
数多の命を預かってきた、医師としての顔だった。
「さて、仕事の話だ。試用期間初日、早速だが一つ、柴田——代表に聞きたいことがある」
諒さんは脚を組み、真っ直ぐな視線で俺を射抜いた。
どうやら俺のことは『代表』と呼ぶようにしたようだ。名前呼びは互いに小っ恥ずかしいものな。
口調はさすがアメリカ仕込みと言うべきか、フランクかつストレートな物言いは昨日から変わっていなかった。
「ポーションのレシピを無償で公開した、貴様ほどの規格外の男だ。『病』を癒やすポーションのレシピ、心当たりはないか?」
「病、ですか?」
「ああ。ダンジョンで時折見つかる【キュアポーション】。病原菌やウイルスによる疾病を癒やす、所謂『医者要らず』のポーションだ。しかしこれらは、重い疾患を完治させるには程遠い」
現代の探索者事情において、回復薬の定義は明確に二分されている。
一つは、物理的な外傷を癒やす『ポーション』だ。
切り傷、打撲、骨折といった肉体の損傷を魔力によって縫合・再生させるもので、その効力は【
ランクが上がるほど、瀕死の重傷すら瞬きする間に治癒せしめる命の水となるわけだ。上級までいけば、欠損すら癒やしてくれる。
以前は初級のポーションですらうん百万からうん千万の価値で取引されていたが、初級から中級に食い込むあたりまでのポーションは、俺がレシピを公開したこともあり、製造ラインが確立され、相場はかなり落ち着いた。
対して、諒さんが求めているのは【キュアポーション】――即ち、病魔を払う霊薬だ。
こちらは傷ではなく、体内に巣食うウイルスや病原菌、あるいは臓器の機能不全といった『状態異常』に作用する。
だが、決定的な違いはその希少性にある。
素材さえあれば調合可能な通常のポーションと異なり、キュアポーションはダンジョンの深層で稀に発見される宝箱や、強力な魔物からのドロップでしか入手できないアーティファクトなのだ。
現代の魔導技術や科学をもってしても再現不可能な未知のテクノロジー。
しかも、現存するキュアポーションの多くは低級のものであり、風邪や食中毒程度なら治せても、癌や難病、あるいは桜のお母さんを蝕んでいたような呪い由来の重篤な疾患までは治せない。
それが、今の探索者業界における常識であり、医師である彼が突き当たっている壁なのだろう。
諒さんの声に、熱がこもる。
「俺は医師として、多くの救えない命を見てきた。魔法やスキルがあっても、病魔に冒された患者を前には無力なことが多い。
……俺は、そんな理不尽を無くしたいんだ」
彼の瞳には、一点の曇りもなかった。
そこにあるのは、純粋な医師としての使命感と、慈愛の精神だけだ。おそらく母親の件も多分に影響を与えているのかもしれない。
ただ、こっちが本来の彼——『柾木 諒』という男の本質なのだろう。
「……すみません。俺の知識にあるのは、解毒や状態異常回復までです。病気そのものを治すレシピは、今のところありません」
脳内のデータベースに残っている、今まで調べたり倒した魔物を検索してみるが、中級以上のキュアポーションをドロップする魔物はいても、レシピを落とす魔物はいなかった。
そもそもポーションのレシピを落とした魔物も、隠しエリアに存在するボスみたいなヤツからドロップしたものだ。
レアなアーティファクトはそこらの雑魚敵からは、ドロップしないのかもしれない。
俺が首を横に振ると、諒さんは悔しげに拳を握りしめた。
「そうか……。やはり、伝説の域を出ないか」
重い沈黙が流れる。
その時だった。
「うん? なんじゃ、そんなことも知らんのか?」
ソファで不貞腐れてスルメを齧っていたティアが、気だるげに口を挟んだ。
昨日の『一週間オヤツ抜き』の刑が執行中のため、ポテチの代わりに低カロリーなスルメを与えているのだ。スルメはおやつに入るか否か、壮大なテーマによる
「ティアちゃん、何か知ってるの?」
「うむ。病を治す薬じゃろ? それなら【ヒュギエイアの書庫】に行けばよい」
「ヒュギエイアの……書庫?」
聞いたことのない名前に、俺たちは顔を見合わせる。
横でパソコンを叩いていた白雪さんですら、手を止めて首を傾げている。
「聞いたことがありませんね。国内はおろか、海外のダンジョンリストにもそんな名前は……」
「当たり前じゃ。それは物理的な場所に存在するダンジョンではない。次元の狭間に存在する、記録と叡智の保管庫じゃからな」
ティアはスルメの足をヒラヒラと振った。
「どのダンジョンからでも行ける。ただし、入り口を開くための【鍵】が必要じゃがな」
「鍵、だと……?」
「そうじゃ。かつて神代の時代、癒やしの女神が遺したとされる空間へのアクセス権。……まあ、今の人間が持っているとは思えんが」
ティアの話に、諒さんが身を乗り出した。
「そのダンジョンに行けば、レシピがあるというのか!?」
「うむ。あそこには古今東西のあらゆる薬学の知識が眠っておる。病を治す『キュアポーション』の製法もあるはずじゃ」
諒さんの目に希望の光が宿る。
だが、すぐにその光は陰った。
「しかし、【鍵】はおろか【ヒュギエイアの書庫】など見たことも聞いたこともない。実在するのかも怪しい話だ」
「あるぞ。ここに」
ティアは自身の懐をごそごそと探ると、古びた真鍮製の鍵を取り出し、テーブルに放り投げた。
カラン、と乾いた音が響く。
「……は?」
「儂のを貸してやろう。昔、拾ったんじゃ」
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