第173話 兄

「えっ……お、お兄ちゃん!?」


 桜だ。

 審査席の椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、信じられないものを見るように目を見開いている。


 その悲鳴にも似た驚愕の声は、会場にいた誰もが――ティアと白雪さんを含め――『R』の正体が、あの柾木桜の実兄であることを理解させるには十分すぎた。


 R――柾木 まさき りょう

 その端正な顔立ちは、確かに桜の面影をどこか鋭利にしたような美しさを持っていた。正真正銘、彼女の兄だ。


 書類審査で履歴書を見た時も驚いたが、実物をこうして目の当たりにすると、その圧の違いに肌が粟立つ。


 以前から、桜に兄がいるという話は聞いていた。

 一回り以上も歳の離れた兄で、幼い頃から妹をそれはもう溺愛していたらしい。


 桜の話では「すごく優秀で自慢のお兄ちゃん」とのことだったが、その語り口にはいつも微妙なニュアンスが含まれていた。兄の話題になると、ふと遠い目をするというか……愛の重さに胃もたれしているというか。

 いわゆる、極度のシスコンというやつなんだろう。


 経歴だけを見れば、文句なしの傑物だ。

 医師免許を持ちながら、トップギルドの探索者として最前線で戦う二刀流ダブルライセンスの猛者。


 本来なら、彼は今頃日本にはいないはずだった。昨年から始まった母親の奇病の治療法を探すため、海外のトップギルドへ移籍し、世界中を飛び回っていると聞いていたからだ。


 そんなエリート中のエリートが、なぜ帰国し、あろうことかウチのギルドの採用試験に紛れ込んでいたのか。


 最初は、久々に妹の顔が見たかったのか、あるいは妹と一緒に働きたかったのかとも思った。

 だから桜には内緒で書類審査を突破させたわけだが……。


 今のお兄さんの立ち振る舞い。

 そして面接で放った『害虫駆除』という言葉。


 それらが一本の線で繋がった瞬間、俺の背筋を氷柱つららで撫でられたような悪寒が走り抜けた。


 ――違う。

 お兄さんはただ妹に会いに来たんじゃない。

 大切で大切で仕方がない箱入り娘をたぶらかした、どこの馬の骨とも知れぬ男――つまり俺を、物理的に『排除』しに来たんだ。


 だが、お兄ちゃん——諒の耳には愛する妹の声すら届いていないようだった。

 彼はただ、目の前の俺だけを見つめている。


「……正直、震えが止まらんよ」


 諒さんは素直に認めた。

 顔が汗で滲んでいる。


「貴様という存在の底が見えない。生物としての格が違うことくらい、医者としての本能が理解している。

 ……細胞の一つ一つが『逃げろ』と叫んでいるさ」

「なら――」


 俺が言いかけた、その時。

 諒さんが吠えた。


「だが! 恐怖に背を向ける者に、愛する者の隣を歩く資格などないッ!!」


 空気が震えた。

 それは単なる強がりではない。


 己の弱さを認め、恐怖を飲み込み、それでもなお「愛」のために踏み出す者だけが放てる、魂の叫びだった。

 ただ、その愛の対象が妹というのがなんとも言えないが。


(……格好いい)


 俺は口元を歪めた。

 イケメンなのに思考がヘンタイなのはもったいなさ過ぎるが、その芯にあるものは本物だ。


「分かりました。では——来い」


 俺が手招きした瞬間、諒が動いた。スーツの裾を翻し、疾走する。


術式解剖オペレーション鎮静セデーション!」


 諒が指先から、無数の細い針のような魔力弾を放つ。

 狙いは俺の四肢の神経節。動きを封じるための牽制か。

 俺はその全てを最小限の動きで躱す。


「無駄だ」


 俺は諒の懐に潜り込み、軽く掌底を打とうとした。

 だが。


「そこだッ!」


 諒は俺の攻撃を防御しなかった。

 あろうことか、彼は俺の放つ魔力流に自らの魔力を同調させ、無理やりこじ開けるようにして俺の防御壁の内側へと滑り込んできたのだ。


 まるで、血管の隙間にカテーテルを通すような、神業的な魔力制御。

 そして、ガラ空きになった俺の顔面に、握りしめた拳を突き出してきた。


(……ッ!?)


 見えた。

 完全に軌道は見えている。

 避けることは造作もない。指一本で止めることもできる。


 だが、その拳に込められた兄の意地を見た瞬間、俺の脳裏にふと、ある事実がよぎった。


 ――俺、可愛い妹さんを、奪っちゃったんだよなぁ。


 俺はおっさんだ。

 桜はまだ二十歳にもなっていない女子大生。

 手塩にかけて愛し育てた妹を、こんな得体の知れないおっさんに取られた兄の気持ち。


 その怒りと寂しさと、それでも妹の幸せを願う不器用な拳。

 ……一発くらい殴られてやるのが、筋ってもんじゃないか?


 その一瞬の迷い――いや、贖罪の念が、俺の足を止めた。


 鈍い音が響き、俺の頬に衝撃が走った。

 諒の拳が、綺麗に俺の右頬を捉えていた。


「……えっ?」


 会場が凍りついたのが分かった。

 ティアですら、目を丸くして口を開けている。


 これまで多々の怪物を無傷で圧倒的に屠ってきた柴田浩之に、一撃を入れた衝撃。

 諒自身も、自分の拳と俺の顔を交互に見て、信じられないという顔をしていた。


「……痛いな」


 これが、愛の力か。

 実際、高ランクなりの重さはあった。意図的に防御を解いた状態で受ければ、これくらいは痛い。

 俺はニヤリと笑い、へたり込みそうになる諒の肩を叩いた。


「合格です。……いい拳でした、お兄さん」

「……あ、ああ……?」


 諒はまだ状況が飲み込めず、呆然としている。

 俺は倒れた男たちを一瞥し、司会席の白雪さんに向かって手を上げた。


「試験終了です。……合格者は、Rこと柾木 諒、ただ一人!」


 会場に、俺の声が高らかに響き渡る。

 観客席から唸るような歓声が轟いた。

 こうして、波乱の採用試験は、シスコン兄の一撃というまさかの結末で幕を閉じたのだった。

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