働きたくないでござる編

第158話 おっさんは不労所得を夢見る

「まったり生活って何なんだろう……」


 思わず声が漏れる。

 と言っても、それはダンジョンの最奥で未知のモンスターに遭遇した時の絶望的な声ではない。ましてや、世界の危機を前にした悲壮な決意の声でもない。


 それは、人間が最も無防備で、最も堕落し、そして最も絶望を感じる瞬間に発する、魂の吐息だった。


 つまりは、ゴールデンウィークの最終日。

 世間が絶望の闇に覆われていると言っても過言ではない日だ。


 現在の時刻は午前10時30分。

 黄金週間が終わるまで残り13時間とちょっと。

 そんな尊い時間に、俺は何をしているのか。


 ——リビングのソファと、分子レベルで融合していた。


「あー……。重力が……重力が俺を愛しすぎている……」


 南向きの大きな窓から、春の柔らかな陽光がこれでもかと降り注いでいる。

 レースのカーテン越しに濾過された光は、暴力的なまでの白さを失い、ただただ優しく、暖かく、俺の惰眠を肯定するように頬を撫でていく。平和だ。あまりにも平和すぎる。


 マカオでのあの激闘――マーコダンジョンを舞台にした不死鳥との激戦が、まるで前世の記憶のように遠く感じられる。

 今の俺にあるのは、ふかふかのクッションの感触と、鼻腔をくすぐるコーヒーの香りだけだ。


「ひろくん、溶けてるよ?」


 キッチンの方から、鈴を転がすような愛らしい声が飛んでくる。

 視線だけをずらすと、そこにはエプロン姿の桜がいた。


 黒髪のロングヘアを緩く後ろで束ね、白いフリルのついたエプロンを身に着けたその姿は、破壊力が凄まじい。

 『新婚さん』という単語が脳内辞書で真っ赤に線引かれるレベルだ。もっとも、彼女は四月から女子大生になったばかりの身であり、まだ関係は恋人といったところだ。


「溶けてるんじゃないんだ、桜。俺は今、地球と対話しているんだよ」

「ふふっ、また変なこと言ってる。はい、コーヒーどうぞ」


 桜がトレイを持って近づいてくる。

 カチャリ、とソーサーがローテーブルに置かれる音さえも心地よい。湯気と共に立ち上るアロマの香りが、俺の脳髄をさらにリラックスモードへと沈めていく。


「ありがとう、桜。……あー、美味い」


 一口啜る。渋みは一切なく、透き通るような香りが鼻に抜ける。

 俺は深く息を吐き出し、再びソファの背もたれに沈み込んだ。


 これだ。

 俺が求めていたのは、名誉でも、ランクワンという称号でも、ましてや英雄としての称賛でもない。


 この、何もしなくていい時間。

 誰にも命令されず、仕事に追われず、理不尽なクレームに頭を下げる必要もない、絶対的な自由。

 そう。これが大切なんだよ!


 幸運なことに俺には金がある。

 マカオのカジノで巻き上げた金、さらにはオークションに出品した利益などで、預金残高は桁がおかしくなっている。

 一生遊んで暮らせるだけの額はあるはずだ。


 だが。

 ここで、俺の小心者な精神が鎌首をもたげる。


(待てよ……。今の生活水準を維持したまま、あと四十年、いや五十年生きるとして……インフレリスクは? 円の暴落は? あるいは、俺が病気になって莫大な治療費がかかる可能性は?)


 貯金は、使えば減る。当たり前だ。

 減っていく通帳の数字を眺めながら、死ぬまでビクビクして暮らすのは真の平穏とは言えないのではないか?

 真の平穏とは、減った分だけ、いやそれ以上に勝手に増えていく『黄金の泉』を持っていて初めて成立するものではないか?


「……不労所得」


 その四文字が、天啓のように脳裏に浮かんだ。

 労働の対価としての賃金ではない。

 システムが、権利が、俺の代わりに稼ぎ出してくれる黄金の果実。


「不労所得こそが正義だ。俺は、寝ているだけでチャリンチャリンと金が入ってくるシステムを構築したい」

「また阿呆なことを言うておるのう、おぬしは」


 俺が真顔で天井に向かって呟くと、ソファの反対側から「バリボリ」という騒がしい音が響いた。

 呆れを多分に含んだ、幼くも老成した声。


 視線を向けると、そこには金髪の幼女――に見える古の神龍、ティアが胡座をかいて座っていた。

 高級ブランドのクッションを背もたれにし、手には大袋のポテトチップス。Tシャツには『働いたら負け』という筆文字がプリントされている。どこで買ってきたんだその服。羨ましいぞ。


「アホとはなんだ、アホとは。これは人類の夢だぞ、ティア」

「夢も何も、お主は既に持っておるではないか。莫大な富と、最強の力を。それ以上、何を望むというのじゃ? 欲をかくとハゲるぞ?」

「ハゲねーよ! 俺が言ってるのはな、安心感の話なんだ。貯金を切り崩す生活じゃなくて、湧き水のように金が入ってくる仕組みが欲しいんだよ」


 俺が力説すると、ティアはポテチを一枚、器用に指先で摘み上げ、パクリと口に放り込んだ。

 そして、指についた粉をペロリと舐め取りながら、不思議そうな顔で小首をかしげる。


「ふむ……。難儀な男じゃのう。それならば、あの『箱庭』を使えばよかろうに」

「箱庭? なんだそれ」

「とぼけるでない。マカオの一件で、お主が分捕ってきたダンジョンじゃよ」


 ティアが面倒くさそうに、リモコンでテレビのチャンネルを変えながら言う。

 マカオ? 分捕ってきた?

 

 確かに、セキュリティ・システムとかいう【朱雀】を倒すために、短期間ではあるが黒い石碑モノリスを掌握した記憶はある。でも分捕ったとは。


「あれがどうかしたのか? セキュリティは止めたし、もう用済みだろ?」

「……本気で言うておるのか? いや、状況を考えれば仕方ないことなのか……」


 ティアがジト目で俺を見る。その瞳孔が、爬虫類のように縦に細まり、金色の光を放つ。

 彼女はため息をつくと、空中に指を走らせた。

 何もない空間に、魔法陣のような光の紋様が浮かび上がり、そこから一枚のウィンドウが俺の目の前にスライドしてくる。


「これを見よ」



———————— あとがき ————————


というわけで、新章【働きたくないでござる】開幕です!

前章まで頑張りすぎていた浩之ですので、今回はまったりしていける話になればいいなぁ……。

今後もよろしくお願いします!

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