第143話 最強と怪物【ジェームズ・ウィック】②

 その夜。

 ジェームズは、マカオ最大級のカジノホテル『ゴッド・ドラゴン』にいた。

 浩之がここに向かったという情報を掴んだからだ。


 カジノフロアの喧騒の中、彼はすぐにヒロユキを見つけた。

 『大小シックボー』のテーブルで、チップの山を築いていたからだ。


(……イカサマか? いや、違うな)


 遠巻きに観察するジェームズの目は、あらゆる不正を見抜く。卓越した身体能力は動体視力や反射神経にも影響を与える。極小の動き、神速の動きでも、ジェームズの目を欺くことはほぼ不可能だった。


 浩之の手元に怪しい動きはない。

 彼はただ、普通にチップを置いているだけだ。

 それなのに、サイコロが、カードが、ルーレットの球が、彼に味方するように動く。


「確率の偏り……いや、運命への干渉か?」


 それがスキルによるものなのか、彼自身の資質なのかは分からない。

 だが、カジノ側が黙っていないことは明白だった。確実にイカサマを疑われる。

 事実、ジェームズの予想通り黒服たちが動き出し、浩之を取り囲む。


(……連行されたか)


 ジェームズはグラスを傾けながら、少し考えた。

 助けるべきか?

 いや、サマンサの報告や、昼間の立ち振る舞いを見る限り、彼にとってマフィアなど敵ではないはずだ。


 むしろ、彼がどう対応するのか見てみたい。

 力でねじ伏せるのか、交渉するのか、それとも逃げるのか。

 それは、彼という人間の器を測る絶好の機会だ。


 ジェームズはグラスを置き、黒服たちが消えた通用口へと向かった。


 ◇


 地下への階段を降りながら、ジェームズは中の様子を想像していた。

 ヒロユキが暴れているなら、騒ぎになっているはずだ。

 だが、聞こえてくるのは静寂のみ。


 もしかして、手荒な真似をされて気絶しているのか?

 あるいは、既に交渉が終わっているのか?

 ジェームズの脳裏にいくつかの展開が浮かび、消えていく。


 重厚な防音扉の前に立つ。

 中からは微かな話し声と、誰かの悲鳴のような声が聞こえる。


「……遅かったか?」


 ジェームズは扉を開け、中へと踏み込んだ。

 広がっていた光景は、彼の想像のどれとも違っていた。


 コンクリートの壁に、人間が一人、めり込んでいた。

 胸まで埋まり、四肢をだらりとさせた男。


 ジェームズは見覚えがあった。

 リャン・ウェイ。

 中国の裏社会で名を馳せる探索者であり、カード使いの達人だ。


 借金苦でここにいるとは聞いていたが、その実力は本物だ。ジェームズでも、無傷で制圧するには数分はかかる相手だ。


 そのリャンが、壁の染みになっている。

 そして、その足元には数人の屈強な黒服たちが、糸が切れたように転がっている。


 立っているのは、浩之ただ一人。

 衣服には埃一つなく、息も乱れていない。

 まるで、散歩の途中で立ち止まっただけのような涼しい顔で、腰を抜かしたオーナーに笑いかけていた。


(……一撃か)


 ジェームズは戦慄した。

 リャンの埋まり方、周囲の破損状況から見て、戦闘時間は一秒未満。


 しかも、魔法や武器を使った形跡がない。

 純粋な物理的打撃――それも、極めて局所的な一点集中攻撃だけで、沈黙させたのだ。


「――素晴らしい」


 ジェームズは思わず拍手を送っていた。

 これは、怪物だ。

 サマンサの報告書は、誇張どころか控えめな表現だったと思い知らされた。


 浩之が振り返る。

 その目は、獲物を狙う猛獣のように鋭かった。

 空港で見た、気の抜けた青年の顔ではない。

 戦士の顔だ。


 ジェームズの中で、長く眠っていた闘争心が鎌首をもたげた。

 政府の意向により安全性確保ばかりが優先され、本気で命をやり取りすることなど久しくなかった。


 だが、目の前の青年は違う。

 彼となら、全力をぶつけ合えるかもしれない。

 そんな、探索者としての純粋な欲求が湧き上がった。


「ただの通りすがりさ……と言いたいところだが」


 ジェームズは笑みを浮かべ、自身の魔力を開放した。

 体内で循環させ、肉体を全盛期の状態に維持している高密度の魔力。

 その膨大なエネルギーを解き放てば、常人なら立っていることすらできない重圧となる。


 だが、ヒロユキは眉一つ動かさない。

 それどころか、スッ、と重心を沈めた。

 彼がジェームズを『敵』と認識し、迎撃の構えを取ったのだ。


(……いい反応だ。さあ、どこまでやれる?)


 ジェームズは右足を踏み出そうとした。

 その瞬間。


 ――死。


 唐突に、脳裏に破滅のビジョンが襲ってきた。

 予知能力ではない。

 数多の修羅場を潜り抜けてきた経験則が、脳内で瞬時にシミュレーションを行い、その結果を弾き出したのだ。


 ——魔力を纏った拳で殴りかかる。コンマ1秒後、カウンターで首を飛ばされる。生存確率0%。


 ——距離を取り、愛用の短剣を投擲する。投擲モーションに入った瞬間、間合いを詰められ、心臓を貫かれる。生存確率0%。


 ——全防御スキルを展開し、様子を見る。防御の上から粉砕される。生存確率0%。


(……なっ!?)


 ジェームズは思考の中で、数十通りの攻撃パターンを試行した。

 だが、どれ一つとして『彼に傷を負わせる』ビジョンが見えない。

 それどころか、彼がどう動くのかすら見えない。


 そこにあるのは、底の見えない暗黒の深淵。

 触れれば終わる、絶対的な死の領域。


 冷たい汗が、背中を伝う。

 ジェームズは知っていた。ランキング上位の世界はランクの間に大きな壁があることを。

 突如としてランク2になったとき、ランクワンとの壁はどれ程かと考えたことはあった。

 だが、これは壁ではない。

 次元の断絶だ。


 ジェームズたちが『人間』という種の中で最強を競っているのに対し、浩之は『最初から別の生き物』としてそこにいる。

 ドラゴンに素手で挑むようなものだ。

 いや、ドラゴンの方がまだ勝機があるかもしれない。


 ――戦ってはいけない。

 生物としての本能が、警報を鳴らし続けている。


「……無理だな。参った!」


 ジェームズは反射的に両手を挙げていた。

 踏み出しかけた右足を止め、全身の力を抜く。


 プライド? そんなもので命が買えるか、と自笑した。

 ここで意地を張って一歩でも踏み込めば、首は確実に床に転がる。と、ジェームズは確かな未来を見たのだ。


「降参、降参だ。俺の負けだよ」


 ジェームズは努めて明るく振る舞ったが、心臓は早鐘を打っていた。

 目の前の浩之は、きょとんとしている。

 どうやら、自分がどれほどのプレッシャーを放っていたのか、自覚がないらしい。


(……ナチュラル・ボーン・モンスターかよ)


 無自覚な怪物が、マカオの街に解き放たれている。

 その事実に、ジェームズは乾いた笑いが出そうになった。


 サマンサへの礼状——いやクレームを書き直さなければならない。

 「有望な若者」ではなく、「取り扱い注意の最終兵器」だと。


 と、その時。

 カツカツカツ! と、けたたましい足音が響いた。


「ジェームズ様! お待ちになってくださいませ!」


 飛び込んできたのは、金髪碧眼の美少女――エミリー・スチュアートだった。

 お嬢様然とした顔立ちとは裏腹に、彼女の格好は世紀末的だ。


 ゴシック調のドレスに、無骨なガンベルト。太ももには巨大な自動拳銃デザートイーグル。背中には対物ライフル。

 動く火薬庫のような出で立ちだ。


「げっ、エミリー……」


 ジェームズは顔をしかめた。

 このじゃじゃ馬娘め。ついてくるなと言ったのに。


 彼女はジェームズに抱きつき、それからヒロユキを見て、あろうことか鼻を鳴らした。


「……誰ですの、このパッとしない東洋人は?

 ジェームズ様のお知り合い? なんだか弱そうですわねぇ」


 ジェームズの顔から血の気が引いた。

 この馬鹿娘、地雷原でタップダンスを踊るような真似をしやがって。

 この男の一撃でトップランカーが壁のシミになっているのが見えないのか?

 脳天気な娘に殺意がわく。


「おい、エミリー。言葉に気をつけろ。お前、死ぬぞ?」


 ジェームズは本気で警告した。

 だが、エミリーはきょとんとしている。


「え? 誰に? こいつにですの? オーッホッホ! ご冗談がキツイですわジェームズ様!

 わたくしの早撃ちなら、0.5秒でハチの巣にできますわよ?」


 彼女は挑発的に銃を撫でる。

 ジェームズは天を仰いだ。

 終わった。こいつ、殺される。

 0.5秒もかからずに瞬殺されるぞ、とジェームズは本気で思った。


 だが。


「……誰が殺すか。そんな物騒なことしないって」


 浩之は怒るどころか、呆れた様子でツッコミを入れてくれた。

 殺気もない。ただの『やれやれ』といった雰囲気だ。


(……助かった)


 ジェームズは心底安堵した。

 どうやら理性はあるらしい。いや、強者の余裕か。

 蟻が吠えても、象は気にしないということか。


(……まあいい。俺が近くにいて、手綱を握っておくのが世界のためかもしれん)


 ジェームズはヒロユキの隣に並び、内心で冷や汗を拭いながら、ニヒルな笑みを崩さないように必死だった。

 明日のオークション、この男が参加することで何が起こるのか。

 ジェームズは、楽しみ半分、恐怖半分に身震いした。


 こうして、マカオの夜は更けていった。

 ランク2の英雄が、初めて『敗北』を知った夜として。

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