第122話 神殺しのレシピ【ピエトロ】
——イタリア・ローマ市内、バチカン市国。
聖ピエトロ広場の地下深くには、一般の信者が知る由もない極秘施設が存在する。
聖庁情報管理局。
古びた石造りの壁とは対照的に、最新鋭のスーパーコンピューターと無数のモニターが並ぶその場所は、世界中の情報を監視、操作するための司令室だった。
その部屋が今、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「通信トラフィック、異常上昇! 計測不能! これまでのDDoS攻撃の比ではありません!」
「発信元は……日本! 探索者ギルド【空飛ぶ大福】の公式サイトです!」
「馬鹿な! あんな零細ギルドのサーバーが、なぜこれほどのアクセスに耐えられる!? ダウンしないぞ!?」
オペレーターたちが悲鳴を上げる中、中央の巨大モニターに、その原因が映し出された。
それは、たった一つのPDFファイルだった。
【聖女の薬草学書】
そのタイトルを見た瞬間、司令室に立っていた男――マキャベリ枢機卿の手から、ワイングラスが滑り落ちた。
パリン、という乾いた音が、喧騒の中に虚しく響く。
「……レシピ公開、だと……?」
マキャベリ枢機卿は、震える手で手すりを握りしめた。
彼こそが、今回のアドリアンによる日本遠征を承認し、強硬策を推し進めた責任者である。
彼にとってこの書物は、神の奇跡を独占し、巨万の富と権威を教会にもたらすために、絶対に確保しなければならない源泉だった。
それが今、全世界に向けて無料配布されている。
「消せ! 今すぐ消せ! サイトをハッキングして焼き払え!」
枢機卿が唾を飛ばして叫ぶ。
だが、サイバー班の責任者は、絶望に満ちた顔で首を横に振った。
「不可能です……! 相手のサーバーには、理屈の通じない強固なプロテクトがかかっています。我々の攻撃が全て無効化される……まるで、神の壁です!」
◇
情報の拡散は、ウイルスのパンデミックよりも速かった。
最初は嘲笑から始まった。
『悪魔のデマだ』『雑草で薬ができるわけがない』と。
だが、同時に公開された【大福ライブラリ】が、情報の信憑性を爆発的に高めた。
世界中のベテラン探索者たちが、そこに記されたモンスターの弱点やアイテムの情報を検証し、「これは本物だ」と証言し始めたのだ。
このサイトの情報は正しい。
その前提が共有された瞬間、世界中の化学者、薬学者、そして貧困にあえぐ探索者たちが、レシピの検証に走った。
そして、数時間後。
決定的な瞬間が訪れる。
アメリカの著名な生化学者が、動画配信サイトで緊急ライブを行ったのだ。
彼は実験室で、レシピ通りの手順でポーションを作成し、自身の腕をナイフで傷つけ、生成された液体を振りかけた。
傷は一瞬で塞がり、傷跡すら残らなかった。
『……見ての通りだ。これは魔法ではない。極めて高度に計算された、化学反応による細胞活性化だ。
材料費は、わずか50セント。
我々は今まで、50セントで作れるものに、10万ドルを払わされていたのだ』
その言葉は、バチカンへの死刑宣告となった。
ニューヨーク証券取引所。
バチカン系製薬会社の株価を示すグラフが、断崖絶壁のように垂直落下した。
ストップ安などという生易しいものではない。紙屑同然への暴落である。
世界各地の教会前には、説明を求める信者と、怒れる市民が押し寄せた。
『詐欺師!』『金の亡者!』というプラカードが掲げられ、聖職者たちは教会の中にバリケードを築いて立てこもる事態となった。
神の権威は、地に落ちた。
◇
バチカン宮殿、特別会議室。
重厚なルネサンス様式の装飾が施されたその部屋には、張り詰めた空気が漂っていた。
上座には、数名の高位聖職者が沈痛な面持ちで座っている。
そして部屋の中央には、車椅子に乗った全身包帯姿の男――アドリアン・ベネデッティがいた。
その横には、先ほどのマキャベリ枢機卿が、真っ赤な顔で仁王立ちしている。
「貴様のせいだ! 貴様のせいだぞ、アドリアン!!」
マキャベリ枢機卿の怒号が飛ぶ。
「日本人は御しやすい? 聖遺物は確実に回収できる?
よくもぬけぬけと虚偽の報告をしてくれたな!
貴様が無能な働きをしたせいで、教会の権威は失墜し、財政は破綻寸前だ!」
「お、お待ちください枢機卿! 私は貴方様の命令に従って……!」
アドリアンが包帯の隙間から涙を流し、必死に弁明する。
だが、マキャベリは聞く耳を持たない。
彼は自分の保身のために、すべての罪をこの若き騎士団長になすりつけるつもりだった。
「黙れ! 私は対話で解決せよ、と言ったはずだ!
貴様が功を焦り、独断で暴力を振るい、あろうことか返り討ちに遭って悪魔を刺激した!
全ては貴様の独断専行だ!」
「そ、そんな……! 枢機卿、貴方は、異教徒など皆殺しにしてでも奪えと……!」
「衛兵! 連れて行け!
この愚か者を異端審問にかけろ! 二度と太陽を拝ませるな!」
マキャベリの合図で、数名の屈強な衛兵がアドリアンを取り押さえる。
車椅子から引きずり下ろされ、床を這うアドリアン。
「枢機卿ォォォッ!! 嘘だ! 私は神のために! 私はぁぁぁッ!!」
断末魔のような絶叫を残し、アドリアンは引きずられていった。
重い扉が閉まり、静寂が戻る。
マキャベリ枢機卿は、額の汗をハンカチで拭い、大きく息を吐いた。
そして、上座にいる他の聖職者たちに向かって、愛想笑いを浮かべた。
「……お見苦しいところを。
ですが、これで元凶は排除しました。
世界に向けて、全ては元騎士団長の暴走であり、教会は被害者である、と発表すれば、まだ取り返しがつきます。
私が責任を持って、事態の収拾に――」
「――事態の収拾、ですか」
凛とした、だが絶対零度のように冷たい声が響いた。
部屋の奥にある隠し扉が開き、一人の老人が姿を現した。
質素な僧服を纏っているが、その存在感は、この場の誰よりも圧倒的だった。
バチカン国務長官、ピエトロ。
実質的に、教皇庁の政治的判断を一手に担う最高権力者である。
「こ、国務長官
マキャベリの表情が凍りつく。
ピエトロは静かに歩み寄り、マキャベリの目の前で立ち止まった。
「マキャベリ枢機卿。アドリアンを任命したのは誰ですか?」
「は……それは、私ですが……」
「彼の日本派遣を承認し、多額の活動資金を機密費として流用したのは?」
「そ、それも、私ですが……しかし、それは教会の利益のために……」
ピエトロは悲しげに首を横に振った。
「貴方は何も分かっていない。失われたのは金ではない。『信用』です。
トカゲの尻尾切りで現場の人間を処刑したところで、世界は納得しない。
今の教会に必要なのは、血を流してでも
「ま、まさか……」
マキャベリが後ずさる。
ピエトロは冷酷に宣告した。
「マキャベリ枢機卿。貴方に今回の騒動の『最高責任者』として、責を取ってもらいます。
そして、教会の私物化と背任の罪で、直ちに拘束する」
「なっ!? 待ってください! 私は枢機卿ですよ!?
マキャベリが顔を真っ赤にして喚き散らす。
だが、ピエトロは静かに指を振った。
影から現れたのは、教皇直属の衛兵隊たちだった。
彼らは無言でマキャベリの腕を掴み、ねじ上げた。
「離せ! 無礼者! 私は神に選ばれた……!」
「神は、沈黙を選ばれました」
ピエトロが静かに告げる。
「連れて行け。彼には、修道院の地下牢で、一生をかけて神への懺悔をしてもらう」
「ピエトロォォォォォッ!!」
先ほどのアドリアンと同じように、マキャベリ枢機卿もまた、絶叫と共に闇へと消えていった。
二度の尻尾切り。
現場指揮官だけでなく、それを承認した幹部すらも切り捨てる。
そうまでしなければ、今回の火は消せないと、ピエトロは判断したのだ。
部屋に残された聖職者たちは、恐怖に震えながら沈黙していた。
ピエトロは彼らを一瞥もしない。
彼は懐から、一台のスマートフォンを取り出した。
宛先は、日本。
「現代のプロメテウス」と称され始めた、一人の探索者。
「……さて。
それは、数千年の歴史を持つ宗教国家が、たった一人の個の前に膝を屈した瞬間だった。
情報という名の暴力の前に、権威は無力だったのだ。
この日、世界は変わった。
神の奇跡は、人の手による技術へと堕ち、あるいは昇華された。
そして、その中心にいた青年は、世界の喧騒をよそに、ただ平穏に家に帰ることだけを望んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます