第118話 奇跡の滴

 数分後。

 俺たちは、東京ライス国際病院の正門前に到着していた。


 日本でも有数の設備を誇るこの巨大病院の周囲は、異様な緊張感に包まれていた。

 正門前には装甲車が並び、迷彩服に身を包んだ屈強な男たち――在日米軍の兵士たちが、鋭い視線で周囲を警戒している。


 ここまで露骨に警備していると、何か大事なものが中にあるとバレバレだろうに。

 いや、逆にバレることは前提として、それなら最大の警戒体勢を作ることを選んだのか。


 通行人たちが何事かと遠巻きに見ている中、俺はその警戒網のど真ん中に向かって、一直線に突っ込んだ。


「止まれ! ここから先は……」


 小銃を構えかけた兵士が、俺のスピードに反応しきれずに目を見開く。

 俺は減速しなかった。

 もちろん、強行突破するわけじゃない。ただ、悠長に手続きをしている時間が惜しいだけだ。


「サマンサさんの紹介です! 通ります!」


 叫びと共に、俺は閉ざされた正門の鉄柵を飛び越えた。

 桜をお姫様抱っこしたまま、重力を無視したような大跳躍。


「なっ……!?」

「Hey, wait!!」


 兵士たちの驚愕の声を置き去りにして、俺は病院の敷地内に着地。

 そのままエントランスの自動ドアが開いた瞬間、風のように駆け抜けた。


 ロビーにいた看護師や患者たちが、台風のように通り過ぎた俺たちを見て呆然としている。

 エレベーター前で警備していた二人の米軍兵士が、息一つ切らしていない俺を見て、「マジかよ……」と愕然としていた。


「サマンサさんの紹介で来た、柴田です」

「あ、ああ……話は聞いている。通ってよし!」


 兵士が手元に持っていた書類と俺を見比べ、頷く。

 敬礼に見送られ、俺たちはエレベーターで最上階へ。


「……ひろくん、みんな見てたよ?」

「緊急事態だからな。不審者扱いされる前にサマンサさんと合流すれば問題ない」


 エレベーターが上昇する中、俺は軽く息を整える。

 桜を下ろすと、彼女は少し残念そうに、でもすぐに真剣な表情に戻った。


 チン、と軽い音がして扉が開く。

 そこは、下の階とは空気が違っていた。静寂と、消毒液の匂い。そして、重苦しい沈黙。


 VIP病棟の廊下の奥に、サマンサさんの姿があった。

 彼女は壁に寄りかかり、顔を覆ってうずくまっていた。


 俺たちの姿を見ると、崩れ落ちそうなほど安堵の表情を浮かべた。


「ミスター・シバタ! ミズ・サクラ! 無事だったのね!」

「ええ、少し邪魔が入りましたが、問題ありませんでした」

「報告は受けたわ。市街地で戦闘があったって……。貴方たちが無事で本当によかった」


 サマンサさんの目は赤く腫れていた。

 相当、心労が溜まっているのだろう。


「アリスちゃんは?」

「……こっちよ」


 案内されたのは、廊下の突き当たりにある、厳重なセキュリティに守られた特別個室だった。

 部屋の中央、無数の医療機器に囲まれたベッドに、その少女はいた。


 アリス・リデル。十歳の幼い少女だ。本来は可憐な太陽のような少女なんだろう。

 だが、今の姿は痛々しいものだった。


 金色の髪は輝きを失い、透き通るような白い肌には、黒い蔦のような痣が顔の半分まで侵食していた。

 呼吸は浅く、胸の上下も頼りない。モニターの心拍数は不規則に乱れ、警告音に近いリズムを刻んでいる。


「……ひどい」


 桜が口元を押さえる。

 無理な移動だったのかもしれない。余命に余裕があるからと、大丈夫だと思い込んでいた。

 俺の力は万能じゃないんだ。

 扱う俺自身が、もっと成長しなければいけない。


 サマンサさんが、アリスちゃんの手を握りしめ、涙声で言った。


「昨日の夜から急変して……もう、医者からは『今夜が山だ』って……」


 彼女の声が詰まる。

 世界最強の国、その権力の中枢にいる彼女でさえ、死神の手から姪を救い出すことはできなかったのだ。

 ――これまでは。


「間に合いましたよ、サマンサさん」


 俺はザックを下ろし、中から【精霊の涙】を取り出した。

 青く輝く結晶石。

 その光が部屋に満ちると、アリスちゃんの頬の黒い痣が、恐れるように少し後退した気がした。


「これは……! なんて綺麗で濃密な……」

「【精霊の涙】です。あらゆる呪いを解き、生命力を活性化させる、エリクサーの原液そのもの」


 俺はサイドテーブルにあった水差しに、結晶石を浸した。

 石は瞬く間に溶け出し、ただの水が、淡く発光する聖水へと変わっていく。

 部屋中に、清浄な空気が満ちていった。


「これを、飲ませてあげてください」

「ええ……!」


 サマンサさんが震える手でコップを受け取る。

 俺はベッドの背を起こし、アリスちゃんの頭を支えた。

 近くで見ると、その命の灯火が消えかけているのが分かる。体温が、怖いほどに低い。


 サマンサさんが、コップをアリスちゃんの唇に当てる。

 少しずつ、慎重に。

 聖水が、少女の喉を通っていく。


 一口。二口。

 そして、最後の一滴を飲み干した、その瞬間だった。


 アリスちゃんの身体が、内側から溢れ出るような優しい光に包まれた。

 まぶしい、けれど目を背けたくなるような光ではない。暖かく、懐かしい光。


 モニターのアラーム音が止まる。

 乱れていた心拍の波形が、力強く、安定したリズムへと変わっていく。


 そして、奇跡が起きた。

 首筋から顔まで這い上がっていた禍々しい黒い痣が、光に浄化されるように、端からスーッと消えていく。

 死人のように青白かった肌に、バラ色の血色が戻ってくる。枯れ木に水が行き渡るように、生命力が満ちていく。


「……ん……」


 小さな、けれど確かな声。

 長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれた。


 そこに現れたのは、宝石のような碧眼。

 まだ焦点は合っていないようだが、そこには確かな「生」の光が宿っていた。


「……叔母様……?」


 掠れた、けれど可愛らしい声。


「アリス……! ああ、アリス……!!」


 サマンサさんが泣き崩れ、少女を抱きしめる。

 アリスちゃんはまだ状況が飲み込めていないようだが、弱々しくもサマンサさんの背中に手を回した。


「私……身体が、軽いの。痛くないの……」

「ええ、ええ……! もう大丈夫よ、もう痛くないわ……!」


 その光景を見て、桜がそっと涙を拭う。

 俺も、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 やってよかった。

 誰かの役に立つというのは、こんなにも満たされるものなのか。

 危険を冒した甲斐があったというものだ。


 ふと、アリスちゃんが俺たちの方を見た。

 俺と桜。見知らぬ二人。

 だが、彼女は不思議そうに首を傾げ、それからふわりと、花が咲くように微笑んだ。


「……天使様?」


 その言葉に、俺は思わず吹き出しそうになった。

 天使。俺が?

 桜なら間違いなくそうだが、俺はどちらかと言えば、悪魔アドリアン達を素手で殴り倒し、車を破壊しながらここまでやって来た蛮族だぞ。


「ふふっ、ひろくん、天使様だって」

「参ったな。背中に羽でも生えてるように見えるのかな」


 俺が苦笑すると、サマンサさんが涙を拭いながら振り返った。

 その表情は、もう冷徹なエージェントのものではない。ただの一人の、感謝に満ちた女性の顔だった。


「ええ、そうね。貴方たちは、私たちにとって間違いなく天使よ。……ミスター・シバタ、ミス・サクラ。本当に、本当にありがとう……!」


 彼女は深々と頭を下げた。

 世界最強の大国の特務指揮官が、プライドも何もかも捨てて、心からの感謝を捧げてくれている。


「いいえ。俺たちは、ただの探索者ですよ」


 俺は照れ隠しにそう答えた。


 ◇


 アリスちゃんが安らかな寝息を立てて眠りにつくのを待って、俺たちは別室で今後の話をした。


「報酬は、約束通りなんでも用意するわ。お金? それともアメリカの永住権? 大統領も『恩人には相応の報いを』と仰っているわ」


 サマンサさんが真剣な顔で言う。

 俺は首を横に振った。


「お金は十分持ってますし、永住権も今のところ必要ないです。

 強いて言うなら……今回の件、バチカンとの揉め事を、穏便に処理していただければ」


 相手が魔物なら倒せば終わりだけど、人間——それも大きな組織相手だと、倒して終わりとならないのがツラいところだ。

 特に宗教という人を救いも狂わせもする存在を、まともに相手をするのは大変すぎると思う。


「ええ、もちろんよ。彼らには厳重に抗議し、二度と貴方たちに手出しさせないように釘を刺しておくわ。大統領の名前でね」


 それは心強い。最強の用心棒だ。


「……あの、ミスター・シバタ。本当に、それだけでいいの?」


 サマンサさんが、俺の目をじっと見て尋ねてきた。

 もしかしたら、俺が何かを言い淀んでいることに勘付いているのかもしれない。


 俺のインベントリの中には、もう一つの戦利品――【聖女の薬草学書レシピ】が眠っている。

 これを渡せば、多くの苦しむ人を救えるかもしれない。

 アメリカ政府の力を使えば、世界中に広めることも可能だろう。


 だけどなぁ……。

 俺はアドリアンの言葉を思い出す。


 『神の所有物』

 『我ら騎士団が管理すべきもの』。


 もし今、これをアメリカ政府に渡せばどうなる?

 バチカンは黙っていないだろう。『アメリカが神の奇跡を盗んだ』として、国際的な対立を生むかもしれない。

 最悪、戦争の火種になりかねない。


 それに、アメリカ政府だって一枚岩じゃない。バチカン系列企業のロビー活動によって、この技術が一部の富裕層のためだけに独占される可能性もある。


 ——これは、俺が持っておくべきだよな。


 これは爆弾だ。

 使い方を間違えれば世界を混乱させる。


 だからこそ、組織や国に委ねるのではなく、俺自身がタイミングと方法を見極めて、世界に解き放つべきだ。

 それが手に入れた俺の責任と権利だろう。


「ええ、十分です。

 俺たちは平穏に探索ができれば、それで幸せですから」


 俺は笑顔で嘘をついた。

 サマンサさんは少し不思議そうな顔をしたが、深くは追求せず、頷いてくれた。


「分かったわ。貴方の平穏は、私たちが全力で守る」


 これで、俺の仕事はひとまず終わりだ。

 俺たちは、平和な日常に戻れる――はずだ。


 ◇


 深夜。

 病院の屋上庭園で、俺たちは祝杯を挙げていた。

 といっても、自販機の缶コーヒーとお茶だけど。


 今日はこのままここに泊まれば良いと、サマンサさんが病院に併設している宿泊施設を開放してくれたのだ。


 屋上から見下ろす東京の街は、人工的な灯りで輝いていた。

 遠くで、警察か何かの救急車両が走っているサイレン音が聞こえた。

 赤色灯の光が、夜の街にゆっくりと回転しながら溶け込んでいく。


「……終わったね、ひろくん」

「ああ。長い一日だったな」


 桜が伸びをする。

 その顔は晴れやかだ。


 今回の冒険で、桜もまた一つ強くなった。

 水瀬さんという師を得て、自分の魔法に自信を持てたようだ。


「また、冒険しようね」

「もちろん。次はもっとのんびりした、観光メインのやつがいいな」

「賛成! 美味しいもの食べて、温泉入って!」


 俺たちは笑い合った。

 この平穏が、ずっと続けばいい。

 そう思っていた。


 だが、俺たちはまだ知らない。

 この奇跡が、世界を巻き込む巨大な波紋の始まりに過ぎないことを。

 天使と呼ばれた俺が、明日には世界最大の宗教国家から「悪魔」と断定されることになるなんて、この時の俺はまだ、想像もしていなかったのだ。

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