第112話 聖なる歌声
俺が扉を開けようと手をかけると、水瀬さんがスッと横から手を差し出し、俺の動作を制した。
「待ってください、柴田さん。開ける前に、共有しておくべき情報があります」
その声色は、先ほどまでの興奮した様子とは打って変わり、冷徹な指揮官のものになっていた。
彼女の瞳には、これから対峙する脅威への警戒と、苦い記憶が混じっているように見えた。
「このエリアが発見されたのは先週のこと。自衛隊の精鋭部隊による定期演習中でした。
彼らは偶然この扉を発見し、内部へ侵入しましたが……結果は『壊滅』でした」
「壊滅……? 全滅ってことですか?」
「いえ、死者は出ていません。ですが、精神的な被害が甚大でした」
水瀬さんは扉を見据えたまま、重々しく語る。
「突入からわずか数分後、隊員たちは突如として錯乱状態に陥りました。ある者は武器を捨てて座り込み、ある者は虚空に向かって愛を叫び、またある者は……味方に武器を向けたそうです」
同士討ち。
探索者にとって、いや、戦いを生業とする者にとって、最も忌むべき事態だろう。
「私も後日、単独で偵察に入りました。
そこで聞いたのは……この世のものとは思えないほど美しい、そして恐ろしい『歌声』でした」
「歌声……」
「はい。その歌を聞いた瞬間、思考が白い霧に包まれたような感覚に陥り、戦意が根こそぎ削ぎ落とされました。
同時に、強烈な多幸感と睡魔が襲ってくる。……私は即座に自身の足を短刀で突き刺し、痛みで正気を保って撤退しましたが、もし判断が遅れていれば、今頃はこの扉の向こうで永遠の夢を見ていたかもしれません」
自らの足を刺して撤退。
怖いことをサラリと言っているが、壮絶な判断力だ。
ランク一桁の実力者がそこまで追い詰められるとは、相当厄介な相手らしい。
「敵は精神干渉系の能力を持つ、高位の精霊種と推測されます。
通常の精神耐性スキルでは防ぎきれない強力な魅了と催眠効果。それに加えて、周囲の魔物を強化する能力も確認されています」
水瀬さんはそこで言葉を切り、俺を真っ直ぐに見つめた。
「正直、今の我々の装備では攻略不可能です。
ですが……常識の通じない貴方なら、あるいは」
彼女は縋るように、それでいて信頼を込めて言った。
「柴田さん。私の背中を預けてもいいですか?」
「任せてください。精神攻撃なら、少しは耐性がありますから」
俺は力強く頷いた。
俺の魔力ステータスの高さは、あらゆる状態異常に対して耐性を高めてくれている。
魔力とはそれほどまでに便利で応用が利く、ご都合主義なものなのだ。
おそらく、どんな精神干渉もシャットアウトできる(はずだ)。
「桜も、離れるなよ。ヤバいと思ったらすぐに俺の後ろに隠れるんだ」
「う、うん……! わかった!」
桜がロッドを握りしめ、緊張した面持ちで頷く。
準備は整った。
水瀬さんが電子ロックを解除し、俺は錆びついたハンドルを握り、力を込めた。
重い金属音と共に、分厚い扉がゆっくりと内側へと開いていく。
隙間から漏れ出してきたのは、地下特有のカビ臭さではなく――澄み切った、甘い花の香りだった。
◇
扉の向こうに広がっていたのは、誰もが息を呑むような幻想的な光景だった。
そこは、巨大な地底湖だった。
天井はおそらく百メートル以上あるだろう。無数の鍾乳石がシャンデリアのように垂れ下がり、それら自体が淡い七色の光を放っている。
湖の水は、底が見えるほどに透き通り、天井の光を反射してキラキラと輝いている。
水面には、蓮の花に似た発光植物が群生し、水上庭園のような美しさを演出していた。
「きれい……」
桜が思わず声を漏らす。
ここが魔物の巣窟であることを忘れてしまいそうな、神聖ですらある空間。
だが、その静寂はすぐに破られた。
――Laaaaa……
どこからともなく、歌声が響いてきた。
ソプラノ歌手の声よりも高く、楽器の音色よりも滑らか。
耳ではなく、脳の奥に直接染み込んでくるような旋律。
「来ます……! 湖の中央!」
水瀬さんが警告を発し、刀を構える。
湖の中心、光が集まる場所に、水面が盛り上がり、一つの影が現れた。
それは、青い流体でできた少女の姿をしていた。
透き通るようなサファイアブルーの肌。表面には金色の幾何学模様が、血管のように脈動している。
顔立ちは整っているが、瞼は閉じられ、表情はない。
背中には、水と光で織り上げられたような六枚の翼が広がり、羽ばたくたびに鱗粉のような光の粒子を撒き散らしている。
——
こいつが、今回のターゲットだ。
【
「ね、ねぇ、ひろくん。ネームドって、こんな短期間に何度も出会うものなの?」
「全く同じ事を考えた。これってついてるのか、ついてないのか……どっちなんだ?」
ネームドモンスターは強敵である一方、レアなアイテムドロップの確率が高まるらしい。
俺の力からすれば、ネームドだろうがノーマルだろうがそこまでの差はないはずだから、アイテムがレアになるだけ得と言える……のか?
そう考えると、この短い期間の間に何度も出会うというのは、桜の豪運の成果なのか。
「……そうですか。既に何度もネームドと刃を交えていると。相変わらずの規格外ですね」
俺たちの軽口に、若干あきれ顔の水瀬さん。
そんな中、精霊——テルペーは、ゆっくりと口を開いた。
――Aaaaaaa……Lu……Li……Laaaaa……
歌声が、波紋のように広がっていく。
それは攻撃的で鋭い音波ではない。
母親の子守唄のように優しく、温泉に浸かったときのように温かく、抗いがたい安らぎを伴って俺たちの意識を侵食してくる。
「っ……!?」
隣で、カラン、と乾いた音がした。
見ると、桜がロッドを取り落とし、ふらりとよろめいた。
「……っ」
「桜!?」
「だ、大丈夫……ちょっと、眠いだけ……」
彼女の膝が折れ、その場にへたり込む。
顔には、緩んだ幸福そうな笑みが浮かんでいる。こんな時だけど、可愛い。
水瀬さんもまた、苦悶の表情を浮かべていた。
「くっ……! この、歌……! 以前より、出力が……!」
彼女は自身の太ももに刀の柄頭を押し当て、痛みで意識を繋ぎ止めようとしているが、その瞳の焦点は定まっていない。
足が震え、今にも崩れ落ちそうだ。
なるほど、これは強烈だ。
俺自身も、頭の中が少しふわふわする感覚がある。まるで度数の高い酒を一気に飲んだ時のような、思考が鈍る感覚。
だが、それだけだ。
俺の精神は、この程度の干渉では揺らがない。
「……ちょっと、寝るには早いかな」
俺は指を鳴らした。
パチンッと乾いた音が響くと同時に、二人が正気を取り戻す。
歌声という音による状態異常であれば、同じように衝撃波という空気の振動を与えることで、状態を正常に上書きできるわけだ。
「はっ……!?」
「えっ、私……?」
と、格好つけて指パッチンして解説してみたものの、成功して良かった。
これで効果がなければ、年間ダサいランキングに躍り出てしまうところだった。
桜は慌ててロッドを拾い上げ、水瀬さんは冷や汗を拭いながら体勢を立て直した。
「た、助かりました……! 一瞬で意識を持っていかれるところでした……!」
「ご、ごめん! 私、何もできなくて……」
「気にするな。結構きつめの精神攻撃だったから、初見じゃ防げなくて仕方ないよ」
俺たちが正常なままであることを確認した精霊は、わずかに首を傾げたように見えた。
自慢の歌が効かないことに、疑問を感じているのだろうか。
だが。
彼女の『聖歌』の効果は、
湖の水面が次々と爆ぜた。
水しぶきと共に現れたのは、異形の騎士たちだった。
半魚人のような鱗に覆われた体に、珊瑚や貝殻でできた鎧を纏っている。手には骨の槍や、錆びた剣。
——サハギン・ナイト。解析により読み取れるステータス的には、この階層の敵としては二回りほど高い。
だが、今の彼らから感じる圧は、本来のステータス以上だ。
その体は、精霊の歌声に合わせて金色に発光し、異常なまでの魔力を放出している。
「グルルルルァァァァッ!!」
数十体ものサハギンたちが、一斉に襲いかかってきた。
速い。どうやら『聖歌』により、
「迎撃します! 柴田さんはボスの牽制を!」
水瀬さんが叫び、疾風のように前に出る。
抜刀一閃。
先頭のサハギンの首が宙を舞う。
だが。
「なっ……!?」
首を失ったはずのサハギンの体が、光の粒子となって崩れる――ことはなかった。
切断面から金色の光が溢れ出し、まるで時間を巻き戻すように、瞬時に首が再生したのだ。
復活したサハギンは、何事もなかったかのように槍を突き出してくる。
「再生能力……いえ、即時蘇生!?」
水瀬さんが舌打ちをして、攻撃を躱す。
他のサハギンたちも同様だ。
桜が魔法で吹き飛ばしても、俺が剣で粉砕しても、精霊の歌声が響いている限り、彼らは数秒で元通りに再生してしまう。
ゾンビなんて生温かいもんじゃない。完全なる「不死軍団」だ。
――Laaaaa……Lu……Laaaaa……
精霊の歌声が、さらに高らかに響く。
それは慈愛の歌ではない。死を許さない、強制的な生の呪縛だ。
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