第86話 蛇

 その時。

 ゾワリ、と首筋に寒気が走った。


 気配がない。

 音もない。

 殺気さえ、感じさせない。


 ただ、「そこにあるはずの空間」が、不自然に歪んでいるような感覚。


 ——後ろか。

 俺は振り返らず、木刀を背中へ回した。


 キィンッ! と、硬質な金属音が響く。

 何もない空間で、木刀が「見えない刃」を受け止めていた。


「……ほう」


 感嘆の声が漏れる。

 空間が揺らぎ、一人の男が姿を現した。


 黒のスーツに、深紅のネクタイ。銀縁眼鏡の奥で、爬虫類のような目が笑っている。

 昼間、話しかけてきた男。

 蛇崩恭弥。


「やはり、見えますか。私の『死角』が」


 蛇崩の手には、歪な形をしたナイフが握られていた。

 刃の表面から、紫色の煙が立ち上っている。


 スキル<蛇毒ヴェノム>。

 触れるだけで神経を焼き、筋肉を壊死させる猛毒の魔力だ。


「いや、見えてはない」


 俺は木刀でナイフを押し返しながら、答える。


「ただ、違和感があっただけだ。綺麗な絵画の中に、一筆だけ余計な線が混じっているような」

「……違和感、ですか。私の力を、そんなあやふやな感覚で捉えられるとは、心外ですね」


 蛇崩が一度バックステップで距離を取る。

 その動きは、水が流れるように滑らかで、足音が全くしない。これもおそらくスキルの効果。【解析】が<無音歩行>というスキルであると教えてくれる。


「ところで招待状はちゃんとお読みになられました?」

「うん? 読んだけど?」


 ぱぱっと流し読みだったが。


「それはおかしいですね。本日ご招待するなど、こちらの予定にはありませんでしたが?」

「なんで俺がお前らの都合に合わせないといけないわけ?」


 何でもかんでも思い通りに行くと思うなよ、と笑ってやる。それを受けた蛇崩が呆れたように嗤った。


「さすが、ランクワン。強者の理論ですか。ですが、ここからはそうもいきませんよ」


 蛇崩の姿が、再びブレて消えた。

 完全に気配が断たれる。


 視覚、聴覚、魔力感知……あらゆるセンサーから、蛇崩の存在が「認識」できなくなる。


 これが、『認識の死角』の真骨頂か。脳が蛇崩を「風景の一部」として処理し、意識の外へと追いやる絶対的なステルス能力のようだ。


 ヒュッ。

 右耳のそばを、風が切る。俺が首を傾けた直後、そこにあった空間を毒の刃が通過した。


 ザシュッ。

 左脇腹の服が裂ける。浅い。服が切れただけで、皮膚には届いていない。


「おや、避けきれませんか」


 どこからか、蛇崩の声が響く。

 声の発生源すら特定させない、完璧な隠密。


「脳が認識できないものを、防ぐことはできません。貴方の五感は私を捉えているはずだ。網膜にも映っているし、鼓膜も音を拾っている。ですが、貴方の脳が勝手に『そこには誰もいない』と情報を書き換えてしまう。だから反応が遅れる。認識した時には、もう刃が刺さっている」


 四方八方から、殺気が肌を撫でる。

 どこから来るか分からない恐怖。普通の人間なら、疑心暗鬼で精神が摩耗し、自滅するだろう。


 だが。


「……なるほど。面白い理屈だ」


 俺は、目を閉じた。

 視覚情報なんて、今は邪魔なだけだ。脳が勝手に書き換えるなら、見なければいい。


「認識を阻害するのは、『蛇崩恭弥』という存在そのものなんだろ?」


 俺は木刀をだらりと下げる。

 全身の力を抜き、聴覚と触覚、そして肌の感覚を極限まで研ぎ澄ませる。

 ステータスアップした俺の知覚能力は、風のさざめきすら聞き分けるレベルにある。


「お前がどれだけ存在を消そうと、質量までは消せない。移動すれば風が起きる。床を踏めば振動が伝わる。刃を振るえば、空気が裂ける音がする」


 俺は、周囲の環境音すべてを拾い上げる。

 エアコンの音。遠くのサイレン。自分の心音。

 それら「ノイズ」の中から、異質な波長を探す。


 ——ヒュン。


 微かな風切り音。右斜め後方。空気が圧縮され、真空の刃が生まれる音。


「そこだ」


 俺は目を開けることなく、木刀を裏拳のように振り抜いた。その音がした一点に、正確に木刀を割り込ませる。

 ガギィンッという手応えを感じる。金属と木が噛み合う、確かな感触。


「なっ……!?」


 驚愕の声と共に、空間の歪みが晴れる。

 俺の木刀が、蛇崩のナイフを根元から叩き折っていた。


 折れた刃が回転しながら宙を舞い、床に突き刺さる。

 俺はゆっくりと目を開け、呆然とする蛇崩を見下ろした。


「認識できなくても、物理法則までは誤魔化せない。ナイフが迫れば空気が動く。俺はそれを叩いただけだ」


 蛇崩の顔が引きつる。

 それは、蛇崩にとって悪夢のような理屈だったろう。


 「認識させない」という最強の盾を、「認識せずとも、環境の変化を知覚した後に・・対応する」というデタラメなスペックで粉砕されたのだから。


「ば、馬鹿な……! そんな芸当、できるわけ……!」

「できるさ。それがランクワンってやつなんだろ?」


 俺は一歩、踏み込む。

 蛇崩が後ずさる。冷静沈着だった仮面が剥がれ、焦燥が露わになる。


「俺の家族に手を出そうとした時点で、お前はもう『風景』じゃない。排除すべき『障害物』だ」


 俺は木刀を振りかぶる。

 蛇崩が予備のナイフを抜こうとするが、その動作音すら、今の俺には大音量のサイレンのように聞こえる。


「終わりだ」


 一閃。

 木刀が蛇崩の脇腹を捉える。

 骨が砕ける感触。蛇崩の身体がくの字に折れ、砲弾のように吹き飛んだ。


 大階段の柱に激突し、蛇崩は崩れ落ちた。ピクリとも動かない。だが、手加減はしたから、死んではいないだろう。多分。


 俺は倒れた蛇崩を一瞥し、視線を上げる。


 大階段の上。

 二階のテラスから、こちらを見下ろして優雅に微笑んでいる男がいた。


 その姿は、この薄汚れた倉庫街には不釣り合いなほど洗練されていた。

 イタリア製の高級スーツを着こなし、彫りの深い整った顔立ちはモデルのようだが、その瞳は爬虫類のように冷たく、感情の温度を感じさせない。


 内側から滲み出る暴力的な気配。

 生まれながらの支配者層特有の、他者をモノとしか見ていない傲慢さが、全身から立ち上っていた。


 アレが——倶蓮牙 獣哉か。俺の、敵だ。


「……素晴らしい」


 獣哉が、パチパチと拍手をする。乾いた音が、静まり返った倉庫内に響く。


「まさか、蛇崩まで手玉に取るとはね。やはり、お前は俺が飼うに相応しい『獣』だ」


 余裕の笑み。

 自分の腹心が倒され、部下が全滅したというのに、まるでショーを楽しんだ観客のような態度だ。


 俺は木刀を肩に担ぎ、階段をゆっくり登っていく。


「飼う? 寝言は寝て言え。これからやるのは——躾だ。お坊ちゃん」


 俺たちの視線が交差する。

 獣哉は、俺の挑発にも眉一つ動かさず、くいっと顎をしゃくった。


「立ち話もなんだ。上で話そうか。……英雄殿を迎えるに相応しい席を用意してある」


 獣哉が背を向け、奥の扉へと消える。

 俺は警戒を解かず、その後を追った。

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