第37話 ゴブリンのにおい

 階段を降りた瞬間、眩い光が視界を包んだ。思わず目を細める。さっきまで閉ざされた洞窟の中にいたはずなのに、目の前には、どこまでも広がる草原があった。湿った土と青臭い草の匂いが、ここは現実だと教えてくる。


 俺は二度目だが、桜にとっては初めての5階層。さっきまでとは全く違う風景に目をまん丸にしていた。まぁ、洞窟にいたはずなのに草原が出てきて、さらには暖かい陽光が降り注いでくるんだ。そんな顔にもなるよな。


「ひ、ひろくん。階段がないよ! いや、あるけど、ないよ!」

「不思議だよなぁ」


 後ろを振り向けば、降りてきた階段を包み込む巨大な岩の塊がある。岩の塊の中には確かに上り階段が見えるのに、その上には空が広がっている。常識が崩れる光景。何度見てもファンタジーだ。


「さ、さすがダンジョン」


 俺と同じ感想を口にする桜。思わず笑いが零れた。


 涼しい風が頬を撫で、空気が一気に澄む。緑が波打ち、遠くで小川がきらめいている。頭上には青い空。雲がゆっくりと流れていた。

 さすが、ダンジョンだ。


「ん?」

「いや、何でもない。よし、こっからは俺も初めてだから。気をつけて進もうか」


 前回来たときはすぐにゴブリンが襲ってきたので、あまりこの階層の奥までは行っていない。ネットのダンジョン攻略記事によると、この5階層は全面が草原らしい。小川や畦道、人工的な柵などはあるみたいだが、もちろん人が住んでいるなんてことはない。いるのはゴブリンだけだ。


 5階層が"初心者の壁"となっているのは、このゴブリンのせいでもある。意思と知能、そして明瞭な殺意をもった人型のモンスター。こいつを倒せるかどうかが探索者としての分水嶺だ。


「うん!」


 桜の瞳が輝いていた。この世界の未知を純粋に楽しむように、キラキラしている。

 けれどしばらく歩くと、その瞳が揺れた。


 遠くの草の影で、何かが動いた。草の向こうでざらついた息づかいが聞こえる。風の中に、鼻を刺す鉄臭さが混じった。臭い。


 草むらがざわめき、低い笑い声が響いた。

 緑色の肌、黄色い眼。

 身長は桜の胸ぐらいだが、手には錆びたナイフを持ち、汚れた布を腰に巻いた小柄な影。ゴブリンだ。


 それも三……いや、四体。相変わらず団体行動が好きなようだ。


「……数、多いね」

「一体ずつやれば問題ない。焦るな」


 桜が頷き、息を整える。

 両手を胸の前で組み、静かに魔力を巡らせる。水の流れが空気を震わせ、掌の上に碧い光が集まった。


「――<アクア・ランス>」

 放たれた光が槍の形を取り、一直線にゴブリンの胸を貫いた。鋭い音と共に、緑色の血飛沫と水飛沫が舞う。


 桜の水魔法——原始魔法オリジンは、発想と応用力次第で、自由自在にその属性を扱える魔法だ。逆にしっかりとイメージを作り上げないと効果的に使えない。


 それを補う方法として、魔法の名付けがある。【赫灼イフリート】という二つ名を持つ男がインタビューで解説していた方法だが、これは魔法の名前と効果を紐付けることで、魔法名を唱えれば事前にイメージしていたものと同一の効果を発揮できる裏技みたいなものだ。


 桜は、水の塊を弾丸のように放つ<アクア・バレット>、水力カッターのように水の刃を放つ<アクア・ブレード>、今使った水を槍のように突き刺す<アクア・ランス>と、そしてもう一つ名付けしている。


 最初、魔法の名前を言うことに抵抗を感じるかと思ったが、結構ノリノリにやっていた。これが今時のJK《女子高生》というわけか。ジェネレーションギャップを感じるぜ。


「ひとつ!」

「次、左!」

「うん!」


 桜が半回転して、指先を払う。水の刃が弧を描き、飛びかかろうとしてきた二体目のゴブリンの足を切り裂く。


 悲鳴。転倒。そこにもう一撃。桜の足もとに広がる水紋が刃のように閃き、ゴブリンの命を刈った。


 仲間達が簡単にやられているのに構わず、三体目が突っ込んでくる。


 桜は一瞬だけ息を呑み、反射的に腕を上げた。水の膜が彼女を包み、ボロボロのナイフが弾かれた。ゴブリンの顔が驚愕に染まる。<アクア・シェル>。水の膜による防御魔法——最後の名付けした魔法だ。


 万一を考え、助けに飛び出せるようにしていたが、どうやら杞憂だったようだ。身体の力を少し抜く。


 その直後、桜は右手を突き出す。水流が渦を巻き、ゴブリンを弾き飛ばした。渦に巻き込まれたゴブリンは、身体をバラバラにして渦の中に消える。


「……ふぅ」


 静寂。水音だけが残る世界の中、油断なく周囲を見渡した桜は、やっと息を吐いた。ゆっくりと息を整え、掌を見つめる。


「……やった、全部倒した」

「ああ。完璧だったな」


 その言葉に、桜はぱっと笑顔を浮かべた。

 けれど、その直後。


「……うわっ!? なにこれ、くさっ!」

「ん?」

「こいつ……腰巻き落とした! 最悪! くさい!!!」


 倒したゴブリンがいたところに、汚れた布きれが転がっていた。泥と血と、鼻を刺す刺激臭。桜は本気で顔をしかめて、後ずさる。


 おー。ゴブリンの腰布だ。ドロップ率25パーセントのゴミだ。


「……これアイテム? 持って帰るって言われたら泣くよ!?」

「安心しろ。触らなくていい。価値ゼロのゴミだ」

「ゼロ!? じゃあ落とす意味!」


 本当、なんで落とすんだろう。何か効果があるんだろうか。でも解析もしっかりゴミと断言しているしなぁ。


 ちなみに、このままドロップアイテムを放っておくと、いずれダンジョンに吸収されてしまう。もし必要な物ならすぐに回収しないといけない。まぁ、すぐと言っても数時間は大丈夫らしい。


「……嫌がらせかな?」

「やめてよもうっ!」


 桜は両手で鼻を押さえて逃げるように下がった。

 風が草を揺らし、どこか楽しげに響く。俺は小さく笑って肩をすくめる。


「……女の子だなぁ」

「むっ、バカにしてる?」

「いや、かわいいなって」

「ひろくん!?」


 桜の頬が一瞬で赤く染まった。照れと怒りと恥ずかしさが混ざったその表情を見て、俺はふっと笑う。


 ——強くなっていくな、この子。


 ちゃんと、自分の力で戦えている。多分、モンスターを倒すことに多少なりとも抵抗はあるはずだ。それを俺に感じさせないようにして、自分の力で乗り越えている。本当に、心が強いと思う。


 空を見上げると、雲がゆっくりと流れていた。

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