第190話 腐敗竜の解体手術①
理不尽な暴力による天地創造を終えた俺たちは、完成したばかりの広大で肥沃な農地を背にして、ダンジョンのさらに奥深くへと歩を進めていた。
目指すは第5階層。黄泉比良坂ダンジョンの中層にあたる領域だ。
長い下り坂を抜け、5階層に足を踏み入れると、空気を満たす瘴気は一段と濃密さを増した。
空を覆う鉛色の雲はより一層低く垂れ込め、呼吸をするだけで肺が重くきしむような錯覚を覚える。普通の探索者であれば、この空気に当てられただけで正気を失い、自ら毒の川へ身を投げてしまうかもしれない。それほどまでに純度の高い死の気配が充満していた。
「この5階層の主、
歩きながら問いかけると、俺の隣を歩いていたティアが、可愛らしいワンピースの裾を揺らしながら鼻を鳴らした。
「我ら誇り高き龍族の面汚しよ。あれは真の竜ではない。過去に息絶えた下等な飛竜の死骸に、黄泉の国の濃密な死の魔力が宿ってアンデッド化しただけの、ただの動く肉塊じゃ」
ティアは忌々しそうに、赤黒さと鉛色が混じった空の先を睨みつける。
「じゃが、それゆえに厄介ではある。痛みを感じず、急所という概念が薄い。
狙うべきは、その胸の奥底で疑似的な命を供給している『不死の
「なるほど。心臓と肉体が丸ごと肥料になるわけだ……うん?」
俺はふと、以前このダンジョンを単独で攻略した時の記憶を呼び起こした。
「俺、前に桜とここを通った時は、そんなドラゴンみたいな敵、いなかったけどなぁ。神話に出てくるようなモンスターは結構出てきてたけど……」
俺が疑問をぶつけると、ティアはわずかに視線を泳がせ、咳払いをした。
「ふむ。ダンジョンとは奥深く、神秘的なものなのだ。環境の変化によって新たな主が誕生することなど、珍しくもないわ」
「目を逸らしながら言われても説得力がないぞ。お前、何か知ってるだろ」
「知らぬ! ダンジョンの神秘じゃ!」
あ、これ言う気ないな。
もしかすると、俺が以前ここを荒らし回った影響でダンジョンの生態系が狂ったのか、あるいは何者かが何か裏で手を回したのか。追求しても煙に巻かれるだけだと悟り、俺はため息をついて諦めた。
だが、そのやり取りを聞いていたもう一人の同行者が、ピタリと足を止めた。
「……おい」
諒さんが、農作業用のツナギ姿のまま、鋭い視線を俺とティアに交互に向けてきた。
「さきほどから気になっていたのだが。龍族? ダンジョンの神秘?
いったい何の話をしている。そもそも、そこの幼女はいったい何者なのだ? 試験の時もだが、先ほども、片手で岩盤を粉砕するという物理法則を無視した芸当を見せていたが」
あ、しまった。
身内ノリで普通に喋っていたが、諒さんにはティアの正体を明かしていなかったな、そう言えば。
「あー……その、ですね。彼女については、色々と複雑な事情がありまして。ちょっと、今は言えないというか、何というか……」
俺が冷や汗を流しながらしどろもどろに誤魔化すと、諒さんは深く、重い溜息を吐いた。
「……まぁ、良い」
「えっ、いいんですか?」
「ああ。私は徹底した実力主義にして、合理主義者だ。結果が伴えば、過程や素性など些末な問題に過ぎない」
彼は懐から数本の銀色の魔導メスを取り出し、手袋をはめた指先で刃の張力を確かめ始めた。
「今の目的は、あの農地を完成させるための極上の『肥料』を手に入れることだ。彼女が何者であろうと、目標達成の助けになるのなら、私は一切の詮索を放棄しよう」
「……相変わらず、目的のためならブレない人ですね」
良く言えば超のつく合理主義、悪く言えばマッドサイエンティスト気質だ。
諒さんは手元のメスに微かな魔力を流し、刃の通りを調整する。その横顔は、完全にこれから難易度の高い手術に挑む執刀医のそれだった。
「その腐敗竜とやらの『不死の
問題ない。巨大な悪性腫瘍の摘出手術と同じだ。病巣へのアプローチ経路を確保し、周辺組織へのダメージを最小限に抑えつつ、核となる病根だけを切り離す。対象が人間から巨大な死体に変わっただけで、私のやることに変わりはない」
この人は、数十メートル級のドラゴン相手でも手術と言い切るらしい。
やがて、俺たちの目の前に巨大なすり鉢状のクレーターが姿を現した。
赤黒い大河が行き着く終端。
クレーターの底には、川から流れ込んだ毒々しい紫色のヘドロが、湖のように澱んで溜まっている。
表面には絶えず不気味な気泡が浮かび上がり、弾けるたびに目に染みるような亜硫酸ガスを撒き散らしていた。
「——来るぞ」
ティアが短く警告を発した、その瞬間。
クレーターの底を満たす紫色のヘドロが、大きく盛り上がった。
瀑布のような泥の滴りを引き連れて、巨大な影がゆっくりと立ち上がる。
それは、絶望を形にしたような異形だった。
全長は三十メートルを優に超える。白骨化した巨大な骨格に、半ば腐り落ちた赤黒い肉がこびりついている。欠損した部位は、周囲のヘドロと瘴気が寄り集まって強引に補填されており、全身から絶えず強酸の毒液を滴らせていた。
空洞となった両眼の奥には、憎悪と飢餓に満ちた赤い光が灯っている。
そして何より目を引くのは、巨大な肋骨の奥深く——ひときわ強烈な紫色の光の明滅を繰り返している、巨大な魔石のような心臓だ。
あれが『不死の
『ギョォォォォォォォォォォォッ!!!』
大気を震わせ、内臓を直接掻き毟るような咆哮が放たれた。
その口から吐き出されたのは、視認できるほどに濃密な、緑色の瘴気だ。
風に乗って流れてきたその
有機物はおろか、無機物すらも腐敗させる絶対的な死の息吹。
熟練の探索者部隊ですら、この威圧感と瘴気を前にすれば、戦う前に
圧倒的な質量と、暴力的なまでの死の気配。
この第5階層の絶対者として君臨する怪物を前にして。
「……酷いな」
諒さんが、忌々しげに顔をしかめた。
「骨格の著しい歪曲、壊死した筋組織の放置、さらには毒素の垂れ流しによる周囲への二次被害……。
医療の敗北を体現したような有様だ。いったいどこのヤブ医者が、あんなずさんな処置のまま放置したんだ」
「……いや治療とかされていないと思いますけど」
彼は怒りすら滲ませた声で、腐敗竜を睨みつけた。
「主治医を呼んでこいと言いたくなるが……仕方がない。私が執刀してやろう」
農作業用のツナギを着た男が、三十メートル超の巨大なアンデッド・ドラゴンを前にして、カルテを見るような目で宣告する。
恐怖など微塵もない。そこにあるのは、放置された病巣に対する純粋な義憤と、プロフェッショナルとしての冷徹な闘志だけだ。
「まずは私に任せて貰おうか」
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