第187話 黄泉の国のドクター・ファーマー②

 黄泉比良坂ダンジョン。

 日本神話において、イザナギが亡き妻イザナミを連れ戻そうと降り立ったとされる、死者の国への入り口。

 その伝承の通り、内部は陰鬱な空気に包まれていた。


 第1階層、第2階層と進むにつれ、湿度は上がり、硫黄と腐敗臭が混じったような独特の匂いが鼻をつく。

 出現する魔物も、スケルトンやグールといったアンデッド系が主体だ。


「——術式解剖オペレーション切断アンプタ


 ヒュンッ、と鋭い風切り音が響く。

 暗闇から襲いかかってきたスケルトンの群れが、一瞬にしてバラバラに崩れ落ちた。

 諒さんが手にした数本の銀色の魔導メスが、関節の隙間を正確に切断したのだ。


「頚椎、胸椎、腰椎……結合部さえ断てば、骨人形など恐れるに足らん」


 彼は淡々と魔導メスを回収し、ツナギの汚れを払う。

 本来なら俺が管理者権限とやらを使って最深部へショートカット転移することも可能だが、諒さんの前でそれを見せるわけにはいかない。

 今回は「記憶を頼りに案内する」という建前で、徒歩での攻略を選んでいた。


「さすがですね。動きに無駄がない」

「お前のデタラメな暴力と一緒にするな。……それにしても」


 諒さんは周囲を見渡し、眉をひそめた。


「空気が悪いな。瘴気が濃い。普通の人間なら、ここにいるだけで精神を病みそうだ」

「ええ。だからこそ、現世にはない素材が生まれるのかもしれませんね。……さあ、ここを抜ければ目的のエリアですよ」


 俺たちは巨大な鍾乳洞のような通路を抜け、その先にある「境界」を越えた。


 視界が一気に開ける。

 同時に、世界の色が変わった。


「……これは」


 諒さんが息を呑む。

 そこは、天井の見えない広大な空間だった。

 空は鉛色の雲に覆われ、光源がないはずなのに薄暗く赤い光が満ちている。


 地面は荒涼とした岩場と砂利で構成され、草木一本生えていない。

 そして、灰色の粉塵がまるで雪のように、音もなく降り注いでいた。


 第3階層、通称『黄泉の国』。

 その名の通り、死後の世界を具現化したようなフィールドだ。


 遠くには、どす黒い大河が流れているのが見える。

 いわゆる『三途の川』を模したエリアだ。

 川のせせらぎなどという風流な音はない。ただ、重く、粘りつくような水音が、不気味に響いているだけだ。


「……おい」


 諒さんが、降り積もる灰を掌で受け止めながら、疑わしげな声を上げた。


「本当に、こんな場所であの花が見つかるのか?

 日照権はゼロ、土壌は痩せた砂利、水は毒々しいヘドロまみれだ。

 農業どころか、雑草すら育ちそうにない死の大地だぞ」


 彼の指摘はもっともだ。

 医師として、科学者として、この環境が生命に適していないことは一目瞭然だろう。

 だが、俺はニヤリと笑って、川のほとりを指差した。


「普通の植物なら、そうでしょうね。でも、俺たちが探しているのは『黄泉の彼岸花』です。

 曰く、死を養分とし、絶望の中に咲く花。……ほら、あそこを見てください」


 俺の指差す先。

 鉛色の世界の中で、そこだけが異質な輝きを放っていた。

 黒い河原の一角に、青白い燐光が揺らめいている。


「あれは……」


 諒さんが目を見開き、駆け出した。

 近づくにつれて、その姿がはっきりとする。


 岩の隙間に根を張り、可憐でありながらも妖艶な花弁を広げる、一輪の花。

 形状は彼岸花そのものだが、その色は鮮烈なまでの青。

 花弁からは微かな光の粒子が立ち上り、周囲の瘴気を浄化しているようにも見えた。


「……間違いない」


 諒さんがその場に膝をつき、震える手でルーペを取り出した。

 花弁の構造、葉脈、そして漂う魔力の波長を、食い入るように観察する。


「成分構成、魔力特性……すべてレシピの記述と一致する。

 これが、幻の霊薬素材……『黄泉の彼岸花ネザー・リコリス』か」


 彼は感動に打ち震えながら、そっと花に触れた。

 だが、すぐにその表情が険しいものに変わる。


「……しかし、自生しているのはこの一株だけのようだな。

 周囲を見渡しても、群生している様子はない」


 彼は立ち上がり、広大な荒野を見渡した。


「薬の量産には、安定した供給が必要だ。

 この一輪を持ち帰ったところで、作れる薬は数回分。

 世界を救うどころか、臨床試験すらままならないぞ」


 厳しい現実。

 だが、俺にとっては想定内のことだった。


「だからこそ、ここを『農場』にするんですよ」

「農場、だと?」

「ええ。この一株を元に、株分けして、増やして、一面の花畑にするんです」


 俺は、荒れ果てた砂利の大地を踏みしめた。


「環境が悪いなら、整えればいい。

 土地が狭いなら、広げればいい。

 準備はいいですか? ここからが、諒さんの新しい職場の開拓オープンです」

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