第183話 解放

「役目は果たされました。……さあ、お行きなさい。帰り道は、少々騒がしくなるでしょうが」


 彼女の言葉が消え入るのと同時に、世界が反転した。


 穏やかだった書斎の白光が、瞬時にして警報を示すドス黒い赤色へと染め上げられる。

 それだけではない。

 書架が、壁が、天井が――ガラス細工のように細かく砕け、無数の光の破片ポリゴンへと分解されていく。


 それらは崩れ落ちるのではなく、重力に逆らうようにキラキラと輝きながら空へと舞い上がり、虚空へと溶けていった。


「これは……」

「元の場所に戻るみたいですね」


 煌めく幾何学模様の欠片が嵐のように吹き荒れ、視界が白く染まる。

 光の嵐が晴れた時、俺たちが立っていたのは、先ほどまで門番の女神像が鎮座していた、あの大広間の中央だった。


 だが、その様相は一変していた。

 白亜に染まっていた空間は、いまや鮮血のような赤色に浸され、禍々しい魔力が渦を巻いている。

 そして、頭蓋を直接揺さぶるような、厳粛にして冷酷なシステム音声が響き渡った。


『叡智は授けられた。だが、深淵なる知識は、時に世界を滅ぼす毒となる』


 広間の床や壁、天井のあらゆる場所から、タールのような黒い粘液が滲み出し、急速に実体化していく。

 それは人の形を模した騎士であり、獣の形をした魔獣であり、あるいは不定形の悪意そのものだった。

 その数は百や二百ではない。広大なホールを埋め尽くさんばかりの軍勢だ。


『叡智を邪な手に渡すことべからず。汝、その知識を護り抜く力があるか。此処で示せ』


 ダンジョンの最終防衛機構なのか。

 知識を持ち帰る者に課される、最後の試練というわけだ。


『制限解除。これより、ダンジョン内における一切の暴力行為を――推奨する』


「くっ、そういうことか……!」


 諒さんが呻き、メスのような小さな杖を構える。

 彼の魔力は、先ほどの治療の連続で消耗してはいるが、まだ枯渇してはいない。戦おうと思えば戦える状態だ。

 だが、その表情は絶望に彩られていた。


 眼前に展開した黒い軍勢。その一体一体が放つ魔力反応は、黄泉比良坂よもつひらさかダンジョン——所謂Sランクダンジョンに出没する魔物に匹敵していた。

 それが数百体。

 絶望感しか感じない暴力の奔流を前に、一人の探索者はどれだけ小さな存在だろうか。


「無茶だ……! こんな数、どうやって凌げば——」

「下がっていてください、諒さん」


 俺は、震える義兄の前に静かに歩み出た。

 俺の両手は、もうポケットの中にはない。入れておく必要がない。


 視界を埋め尽くす敵意の群れを見渡し、深く、深く息を吸い込んだ。


「もう、この身体に慣れきっていたんだな」


 唐突に手に入れた、神の如き力。

 最初は、持て余すことしかできなかった。触れるもの全てを壊しかねない過剰な出力に、ヤバさすら覚えたこともある。


 けれど、幾多の戦いと経験を経て、俺は徐々にそれを手懐けてきた。

 今では、この圧倒的なエネルギーを身に纏うことが、呼吸をするのと同じくらい自然なことになっていたのだ。


 だからこそ、ここに来るまでの道中――その奔流を無理やり押し殺し、針の穴を通すような繊細な制御を強いられた時間は、俺が思っていた以上に窮屈だったらしい。

 無意識のうちに積み重なっていたストレス。

 それはまるで、ずっと息を止めたまま深海を歩いているような、強烈な閉塞感だった。


 だが、それも終わりだ。

 枷は外れた。

 首を回す。乾いた音が、心地よい。

 抑圧からの解放。

 その反動が、歓喜となって全身の細胞を震わせている。


「さあ――掃除の時間だ」


 俺が地面を踏みしめた瞬間。

 広大なホールの床石が、蜘蛛の巣状に砕け散った。


 魔法ではない。純粋な脚力による加速。

 俺の姿が掻き消え、次の瞬間には敵軍の最前列、重装甲の騎士型魔物ガーディアンの懐に潜り込んでいた。


 防御魔法を展開する暇すら与えない。

 俺の右拳が、鋼鉄の胸甲を捉える。


 衝突音はなかった。

 あまりの衝撃速度に、空気が破裂する轟音だけが遅れて響く。

 ガーディアンの巨体は、俺の拳が触れた一点から塵となって四散した。それだけではない。拳から放たれた純粋な衝撃波が扇状に広がり、背後に密集していた数十体の魔物をまとめて消し飛ばす。


 血飛沫すら上がらない。圧倒的な破壊エネルギーが、対象を原子レベルで分解したのだ。


「ギシャアアアアッ!」


 左右から、獣型の魔物が殺到する。鋭利な爪と牙が、俺の喉元に迫る。

 遅い。


「邪魔だ」


 俺は両手に魔力を集中させた。

 これまで非暴力のために繊細なコントロールを強いられていた魔力を、破壊のために解き放つ。


「——《爆ぜろ》」


 俺を中心に、青白い雷光がドーム状に炸裂した。

 数億ボルトの雷撃が、襲いかかる獣たちを瞬時に炭化させ、灰へと変える。

 密閉空間での雷魔法は、回避不能の広域殲滅兵器となる。広間全体が閃光に包まれ、百体を超える魔物が断末魔すら上げられずに蒸発した。


 だが、ダンジョンシステムは止まらない。壁から次々と新たな影が湧き出してくる。


「キリがないな」


 俺は天を仰ぎ、右手を高く掲げた。

 莫大な魔力が俺の掌に収束し、太陽のような輝きを放ち始める。


 後方で、諒さんが息を呑む気配がした。


「《奔れ》」


 敢えて魔法名を名付けるなら、《極光の聖裁オーロラ・ジャッジメント》か。

 ふっ……。心が疼くぜ。


 俺が腕を振り下ろした瞬間。

 天空から、直径数十メートルに及ぶ極太の光の柱が突き刺さった。


 それは、浄化という名の絶対的な破壊だった。

 光の奔流が、湧き出した影の軍勢を飲み込み、存在そのものを塗り潰していく。

 熱すら感じさせない。ただ、光が触れたものが無へと還元されていく。


 床が溶け、壁が崩落し、この広大な空間そのものが光の中で崩壊していく。

 だが、もはやルール違反のアラートは鳴らない。

 今の俺は、システムが推奨する暴力の体現者なのだから。


 光が収束した時。

 そこには、赤く染まっていたはずの広間は跡形もなかった。

 瓦礫の山と、崩れ落ちた天井から差し込む本来のダンジョンの光。

 そして、全ての敵意が消滅した静寂だけが残されていた。


 鎧袖一触がいしゅういっしょく

 文字通りの単独殲滅だった。


「……行きましょう、諒さん。道は開けました」


 俺は残心を解き、埃を払って振り返った。

 諒さんは、瓦礫の中で腰を抜かしたまま、幽霊でも見るような目で俺を見上げていた。

 その口はパクパクと開閉を繰り返し、言葉になっていない。


 無理もない。

 彼は今まで、俺のことを「規格外の探索者」程度に思っていたのだろう。

 だが今、彼は目撃したのだ。

 人が到達できる領域を遥かに超えた、真の怪物の姿を。

 ……自分で言っていてちょっと恥ずかしいな。


「……お前、よくその力で、今の今まで我慢できたな。暴発しなくて本当によかった……」


 絞り出すような諒さんの言葉に、俺は苦笑いで答えるしかなかった。


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