第184話 兄の受難

 視界を埋め尽くしていた光の渦が収束し、世界が本来の色を取り戻していく。

 足裏に伝わるのは、ダンジョンの荒々しい石床ではなく、綺麗に磨き上げられた人工的なタイルの感触。


 肌を撫でるのは、空調の効いた涼しい風。鼻孔をくすぐるのは、古書の匂いでも血の鉄錆臭でもない、殺菌された清潔なビルの空気だ。


 ADA岡山支所の、岡山ダンジョンへ通ずる【門】のある一室。

 無機質なほどに整えられた白い部屋の中で、俺と諒さんは無事に現実世界へと帰還した。


「……はぁ。戻った、か」


 隣で、諒さんが深く、重い吐息を漏らす。

 その姿は、出発前のエリート然とした佇まいとは程遠い。


 高級スーツはあちこちが煤け、ネクタイは緩み、整えられていた髪も乱れている。精神的な疲労が色濃く滲み出ていた。


 無理もない。未知の領域での診断、究極の二択、そして最後にはあの『暴力の奔流』を目の当たりにしたのだ。彼の胃壁は限界に近いだろう。


 対する俺は、服についた埃を軽く払う程度。

 心身ともに充実し、むしろ少し身体が軽くなった気さえしていた。


「お帰りなさい!」


 ホールへと続く自動ドアが開くと同時に、鈴を転がすような声が響く。

 待ち構えていた桜が、ロビーの方から弾かれたように駆け寄ってきた。


 蛍光灯の光を浴びて、艶やかな黒髪をなびかせて走る姿は、何度見ても見惚れるほどに絵になっていた。


「ただいま、桜。心配かけたな」

「待たせたな、桜。兄さんは無事——」


 諒さんが安堵の表情を浮かべ、愛する妹を受け止めようと両手を広げる。

 感動の再会。

 だが、現実は非情だった。


 桜は、広げられた諒さんの腕の横を、華麗なステップですり抜けた。

 そして迷わず俺の元へ飛び込み、その細い手で俺の身体をペタペタと触り始めたのだ。


「ひろくん! 大丈夫!? 怪我してない!? どこか痛いところない!?」

「うおっ、ちょ、大丈夫だって。ピンピンしてるよ」

「本当? 無理してない? 顔色はいいけど……ああ、よかったぁ……」


 桜は俺の胸に額を押し付け、心底安堵したように息を吐く。

 その瞳は潤み、俺への純粋な心配と愛情で揺れていた。

 そんな彼女の頭を、俺は苦笑しながら撫でてやる。


 そして。

 その背後には、誰もいない虚空を抱きしめる格好で固まった、哀れな石像が一体。


「……さ、桜?」

「あ、お兄ちゃんもお帰り」


 桜は俺にしがみついたまま、ついでとばかりに顔だけ振り返った。

 その声のトーンは、先ほどまでの甘やかなものから一転、絶対零度の平坦さだった。


「ひろくんに迷惑かけなかった? 足手まといになってない? 大丈夫だった?」

「ぐっ……!?」


 諒さんの喉から、カエルのような声が漏れる。

 心配のベクトルが逆だ。


 普通なら兄の安否を気遣う場面だろうに、彼女の第一声は「私のひろくんに迷惑をかけていないか」という確認だった。

 他人事ながら悲しすぎる……。


「ま、待ってくれ桜。兄さんは過酷な試練を乗り越え、人類の叡智を持ち帰ったんだぞ? もう少しこう、労いというか、抱擁というか……」

「お兄ちゃんは大人でしょ。それに医者なんだから、自分の体調管理くらい自分でできるもん」

「ぐぬぬ……理不尽ッ……!」


 諒さんが膝から崩れ落ちる。

 その身体からは、「なぜだ」「解せぬ」「貴様さえいなければ」というどす黒い怨念が立ち上っていた。

 彼が射抜くような視線を俺に向けてくる。


(……滅してやる。この男だけは、何としても……!)


 そんな心の声が聞こえてきそうだ。

 だが、不思議と悪い気分ではなかった。

 

 普通なら気まずさを感じる場面かもしれない。

 けれど、俺には分かっていた。


 桜のこの態度は、諒さんを軽んじているからではない。兄なら絶対に無事に帰ってくるという、揺るぎない信頼があるからこそだ。


 そして、遠慮なく塩対応ができるほど、二人の関係が修復され、安定している証拠でもある。

 そこにあるのは、どこにでもある兄妹の喧嘩だ。


(……いいもんだな)


 家族がいて、心配してくれて、冗談交じりに笑い合える。

 それを目の当たりにして、俺は少しの羨望と、それ以上の温かさを感じていた。


「柴田さん、お疲れ様でした」

「うむ、主よ。なかなか良い見世物じゃったぞ」


 白雪さんとティアも歩み寄ってくる。

 白雪さんは崩れ落ちた諒さんに「諒さん、ハンカチです」と苦笑しながら手を差し伸べ、ティアは俺の腰を軽い手つきで叩きながら鼻を鳴らした。


 俺はふと、ダンジョンの最深部での出来事を思い出し、二人に問いかけた。


「そういえば、二人とも……その、変な感覚とか無かったか? 急に身体が引っ張られたり、どこかに呼び出されたりとか」

「え? ううん、ずっとここにいたよ?」

「はい。特におかしなことはありませんでしたが……」


 桜と白雪さんは顔を見合わせ、不思議そうに首をかしげる。

 やはり、あの断頭台の光景は、ダンジョンが見せた完全な幻覚だったようだ。


「……じゃあ、あの時助けに来たティアも、幻だったのか?」

「うむ。そうとも言えるし違うとも言える」


 ティアは腕を組み、ふむと一つ頷いてニヤリと笑った。


「あのダンジョンは、侵入者の記憶や深層心理を読み取って『絶望』を具現化するシステムじゃったようじゃな。お主が最も恐れる『妹と部下の死』を演出し、心を折ろうとしたわけじゃ」

「趣味の悪い話だ」

「じゃが、お主の心は折れなかった。それどころか、お主の深層心理には『呼べばティアが必ず助けてくれる』という、揺るぎない確信があったんじゃろう」


 ティアは金色の瞳を細め、悪戯っぽく俺を見上げる。


「その強烈な『信頼』が、ダンジョンの作った『絶望』のシナリオを上書きし、儂の幻影を作り出して断頭台を粉砕した――といったところかの」

「……俺の、信頼?」

「うむ。お主の中で、儂はそれほどまでに頼りになる存在ということじゃな? 窮地において、迷いなく名を叫ぶほどに」


 ティアが得意げに胸を張り、俺の脇腹をツンと突いてくる。


「くくく、愛いやつめ。普段は憎まれ口を叩いておるが、魂の底では儂に甘えきっておるようじゃのう?」

「……うるさいな」


 図星を突かれ、俺の顔に熱が集まるのが分かった。

 確かにあの瞬間、俺は何の疑いもなくティアの名を叫んだ。彼女なら、理不尽なルールも物理法則も無視して、絶対に助けてくれると信じていたからだ。

 だが、それを本人に面と向かって指摘されるのは、何とも言えない恥ずかしさがある。


「たまたまだよ。深層心理とか、よく分からんし」

「ほう? 耳が赤いがのう?」

「……というか、お前なんでダンジョンの中の様子が分かるんだよ」

「くくく。話をずらしたな」


 俺はニヤニヤと笑うティアから逃げるように会話を切り上げ、パンと手を叩いて場の空気を変えた。


「場所を変えようか。これからのこと……『世界を救う薬』の話をしなきゃいけませんからね」


 諒さんが、ハッとして顔を上げた。

 その瞳からは、先ほどのコメディじみた色は消え、医師としての真剣な光が戻っていた。


「……ああ、そうだな。忙しくなりそうだ」


 俺たちは夕日に照らされるADAの支所を後にし、帰路についた。

 再び世界が変わるかもしれない——その予感を感じながら。

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