第1話:観測者
ユグドラシル育成区域、第3区画。
機械音ひとつ響かない大自然の中に、一人の女性が立っていた。
「温度、23.6度。湿度、58%。根圏センサー、異常なし……」
彼女の手元には周囲の環境情報が表示され、複数のグラフが宙に描かれている。静かな声で、淡々と項目をチェックしている。
しかし、視線が足元の小さな苗に落ちた瞬間、彼女の様子が変わった。
「よくがんばってるねぇー! 昨日より、茎がしっかりしてきたよ」
一転して仕事顔は引っ込み、植物を見るとき特有の、にやけ顔が出た。
「もう少し光を調整してあげようか。がんばりすぎて、疲れないでね……」
指先がそっと葉に触れ、まるで我が子の額を撫でるような仕草である。
セリス・アマリリス(Celis Amaryllis)──ユグドラシル育成管理主任。
冷静沈着で、成果に一切の妥協を許さない若き科学者。この育成に人生のすべてを懸けてきた彼女にとって、植物は単なる被験体ではない。苗に話しかける口調は、優しさに満ち、温かさを帯びていた。
「セリス主任──あ、こちらにいましたか。そろそろお時間です」
研究員の気配がすると、葉を撫でる指先をさっと引き上げ、何事もなかった顔をする。
「……ええ、わかりました」
セリスは名残惜しそうに観測を終了した。
「育成状態、全て良好……。記録終了します」
彼女の手元に表示されていた、環境情報のウィンドウがすっと閉じた。
セリスは余程のことがない限り、観測を中断して帰ることはない。しかし、今日という日は仕方がなかった。年度初め、全区域のユグドラシル研究員が一堂に会する日だった。
この日は、中央研究所で新しい職員の入所式があり、その後に幹部職員の任命式があった。彼女もまた、任命を受ける者の一人だったのだ。
ユグドラシル研究所の職員にとって、任命式は単なる形式的な儀式ではない。全職員がその使命を改めて自覚し、結束を深める重要な場となっていた。式典では、未来を担う若者たちが誓いの言葉を交わし、責任の重さをその胸に刻む。
セリスは純白のホバリング車両に揺られながら、地平の先にそびえる
「……セリス主任、一度ラボへ戻られますか?」
「いえ、直接中央研究所に向かいます。ステーションまでお願いできますか」
「はい、わかりました。……第3区画ステーションまで、およそ35分です」
車のウィンドウを開放し、パープルグレージュの髪を風になびかせている。セリスはここの空気が好きだった──
ユグドラシルが管理するこの広大な領域には、常に新鮮な空気と最適な湿度が保たれていた。AIと融合した世界樹が空気循環を制御し、空間全体がひとつの温室のように包み込まれていた。
しかし、未だに外界は乾いた風と微細な砂に覆われている。セリスは淡い光が差し込むユグドラシルの大自然を眺めながら、荒廃した世界の大地に思いを馳せていた。
「あの……。ひとつ聞いてもいいでしょうか」
若い研究員は、どこか緊張した面持ちで質問をする。
「構いませんよ。なんでしょうか?」
「主任は……植物と会話できるっていう噂は、本当なんですか?」
セリスは思わず吹き出し、咳き込んだ。
研究所の職員は植物を愛する者が多いとはいえ、セリスの”それ”は度が過ぎていた。
「ちゃんと育ってる? さぼってない?」などとツッコミを入れ、すぐに「ごめんごめん、頑張ってるね」とフォローする姿はいささか異様な光景で、目撃した人達の間で噂になっていた。
「話しかけるのは、仕事の一環……ってことにしておいてもらえるかしら」
セリスはいつもの冷静な表情を保ちながらも、僅かに頬を染めているようだった。
「ふふ。そんなお優しい一面もあるんですね。……私、セリス主任のこと、もっと厳しい方なのかと思っていました」
セリスは一瞬、遠い記憶を辿るように視線を落とした。
「私には幼い頃から、両親も兄弟もいなかった。話しかける相手はいつも植物だけだった」
「……」
「だから、つい声をかけてしまうのかもしれないわね」
──いつしか、車窓風景は大自然から都市部へと移り変わっていた。
透明なドーム状のエナジーフィールドに覆われた都市は、公共システムのほとんどが無人で稼働している。街の所々にはユグドラシルの自然が取り込まれており、住民が日常的に自然に触れられる工夫がされていた。
都市の中心地には、透明なガラスと金属のフレームが織りなす、巨大なドーム型の構造物がある。
第3区画、中央リニアステーションである。施設内には、案内表示や時刻表のホログラムが浮かび上がり、無人の監視ドローンが静かに飛び交う。ステーションの周囲には緑豊かな公園が広がり、自然とテクノロジーが調和した空間を演出していた。
ステーションのメインゲート前に、純白のホバリング車両が静かに滑り込む。無音に近いその動きは、まるで空気と一体化したかのようだった。
「──セリス主任。ステーションに到着しました」
「……ええ、ありがとう」
車体の側面が僅かに開き、空気の流れが可視化され翼のような流れが大きく広がる。
ドアは車体側面の上部に折りたたまれ、その動きに合わせて光のエフェクトが走る。乗降スペースが広く、周囲の安全性を確保するための仕組みだが、その光輝く開閉動作は、まるで生き物の羽ばたきを思わせる。
「では、気を付けて行ってらっしゃいませ! 私も追って会場に向かいますので」
「あなたもお気を付けて」
そう言い残すと、セリスは急ぎ足で駅のホームに向かっていく
「……あぁ~すごいなぁ。あの若さで、ユグドラシル育成管理主任なんて……」
密かに憧れていた先輩の後ろ姿を、いつまでも見送っていた──
「あー! アルバトロスだー!」
その時、近くの公園で遊んでいた子どもたちが、純白の車に興奮した様子で走ってきた。
「かっこいー! この車、
ユグドラシル研究所の職員は、子どもたちの憧れの対象だった。とりわけ、専用車両のアルバトロスは男子の間で大人気だった。
「ねぇ、お姉さんがラボのエースなの?!」
「残念、私じゃないのよ。もうステーションに行っちゃったわ」
「えぇ~、会いたかったなぁ」
「……君たちも、研究員になりたいのかな?」
「うん! 毎日勉強がんばってるんだー」
目を輝かせる子どもたちの眼差しを見て、彼女は励まさずにはいられなかった。
「そっか。必ずなれるよ! 日々の努力は絶対に無駄にならないよ。ラボで待ってるからね!」
理想の社会を実現するために必要なのは、最先端の科学技術やAI制御された社会インフラだけではない。人々、特に子どもたちの希望が社会の根底に不可欠だと、彼女は強く実感していた。
荒廃した大地から立ち上がった彼らは、何よりも諦めない心の大切さを、世代を超えて身に染みて理解していた。彼らはまるでアスファルトを突き破って生える雑草のように、力強く瑞々しかった。
ユグドラシルの都市は、人とAI、そして自然が織り成す機能美が息づいている。誰の目にも、永遠の理想郷として輝いていた。
しかし今、ユグドラシルは新たな段階へ進もうとしていた。
人工知能と融合した大樹。AI制御されたそれは、感情も意思も持たない存在である。……はずであった。
人々の期待とは裏腹に、ユグドラシルの心は人との共存に懐疑的だった……。
人と自然の共生を目指す真の実験が、人知れず始まっていた。
これは、セリス・アマリリスという一人の科学者が、その問いに向き合う物語である。
次の更新予定
毎日 06:00 予定は変更される可能性があります
AI世界樹:ユグドラシルと呼ばれた生命 Kamemaru @KamemaruKakYom
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。AI世界樹:ユグドラシルと呼ばれた生命の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます