窓、または影の記録 ― 建築士の十年 ―

木工槍鉋

光を設計し、影に出会うまで

十年後・夕暮れ


崖地への道は、十年前と変わらなかった。

車を降りると、森から吹き上げる風が頬を撫でた。

秋の終わり。木々はすでに葉を落とし始めている。


十年前、この家を設計した。

そのとき自分は、光のことしか考えていなかった。

「明るい家をつくりたい」——それだけが信念だった。


だが今、風に混じる湿った匂いが、

どこか“後悔”のようにも感じられる。

あの日、図面の上で見落とした何かが、

この風の中でずっと待っていたような気がした。


建築士は、自分が設計した家を見上げた。

外壁に這う蔦は予想以上に伸び、屋根には薄く苔が生えている。

それでも、構造は問題なさそうだ。

十年という時間が、家に重みを与えていた。


玄関の引き戸を開けると、妻が出迎えた。

白髪が増えている。だが、十年前と同じ穏やかな笑顔だった。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥に、

言葉にできない痛みが灯った。

この家の光の中に、時間が宿っている。


「お久しぶりです。来ていただいて、ありがとうございます」

「いえ、お電話をいただいて。何か不具合でも?」

「不具合ではないんです。でも、どうしても先生に見ていただきたいものがあって」


妻は彼を家の中へと案内した。

廊下の無垢材は飴色に変わり、壁には写真が増えていた。

孫の写真、夫との写真、そして夫だけの写真。

遺影ではないが、それに近い何かを感じさせる飾り方だった。


リビングに入る。夕暮れの光が、西側の大きな窓から差し込んでいる。

そのとき、建築士は気づいた。


——影が動いている。


庇の深い影が、床から森へと長く伸びていた。

その影の揺れを見つめた瞬間、

十年前に置いてきた“光の答え”が、

今ここで静かに目を覚ました気がした。


「この影を見てください」

妻が言った。

その声には、十年分の時間と、

“誰かを待っていた人”の響きがあった。



竣工時・真昼


真昼。

竣工の日。

晴れていた。

光が溢れている。

窓から森が見える。緑。深い緑。風に揺れる木々。

「本当に、いい窓ですね」妻が言った。若かった。夫も隣にいた。

「ありがとうございます」建築士が答えた。

窓の高さ。座った時に森の中腹が見える。立った時に森の上部と空が見える。

庇の出。深い。夏の西日を遮る。冬の低い陽射しは入れる。

計算した。図面を何度も描いた。現地で確認した。太陽の角度。季節ごとの高度。

光。どれだけ光を取り込むか。明るさ。開放感。

それだけを考えていた。

影?

考えていなかった。

真昼だから影は短い。庇の真下にわずかにあるだけ。ほとんど見えない。

夫婦は窓の前に立っている。座っている。歩き回っている。

「ここで本を読みたい」

「ここで料理を作りながら森を見たい」

「ここで歳を取りたい」

最後の言葉を、妻が言った。

建築士は頷いた。

鍵を渡す。

「これから、よろしくお願いします」

妻が微笑んだ。

その時。

ふと、建築士は窓の下を見た。

床に、小さな影が落ちていた。

庇が作る影。真昼だから、ほとんど見えない。でも、確かにある。

その影の先を目で追う。窓の外。森。

影は森にも落ちているはずだ。でも、真昼の光が強すぎて、見えない。

「先生?」

「いえ、何でも」

気づかなかった。いや、見なかった。

図面には影は描かれていない。光だけが描かれている。

それでいいと思っていた。

真昼の光の中で。



一年後・朝


一年後。

朝、早い時間に訪れた。

妻がお茶を淹れてくれる。

  窓際に座る。

朝日が低い角度で差し込んでいた。

  庇が影を作る。

    斜めに。

「先生、この影を見てください」

  窓の下半分に、影が落ちている。

    上半分は明るい。

      下半分は暗い。

まるで窓が二つあるようだ。

  光の窓と、影の窓。

「森の見え方が、変わるんです」

  確かに。

    影の中の森は、質感がある。

木の幹の凹凸。

    苔の深い緑。

      枝の重なり。

  光の中の森は、まぶしすぎる。

輪郭がぼやける。

    でも、影の中では。

      細部が見える。

「影があると、ものの形がわかるんです」

建築士は、窓を見つめる。

  影の境界線。

それは斜めに、

    森を切り取っている。

朝の光が作る、

    斜めの線。

意図していなかった。

  でも、

    確かに、

      美しい。

立ち上がる。

  視点が変わる。

    影の位置も変わる。

座っている時は、影が視界の下にあった。

  立つと、影がさらに下に移動する。

    森のもっと低い位置まで、影が落ちている。

「先生、この影、時間で動くんです」

  妻が窓の桟を指でなぞる。

「朝はここ」

  桟の左端。

「昼はここ」

  桟の中央。

「夕方はここ」

  桟の右端。

影が移動する軌跡。

  それを、妻は覚えている。

「一年、毎日この窓から森を見ていました」

  妻の声が、静かに響く。

「そうしたら、影が動いているのがわかったんです」

    影が、時間を教えてくれる。

      影が、季節を教えてくれる。

建築士は、自分の設計図を思い出す。

  そこには光の軌跡が描かれていた。

    でも、影の軌跡は描かれていなかった。

光があれば、影は自動的にできる。

  でも、その影がどこに落ちるか。

    その影が何を照らすか。

      考えていなかった。

窓の外、朝の光が少しずつ高くなっている。

  影の角度が変わっていく。

「見てください」

  妻が窓の外を指さす。

森の中、影が落ちている場所に、

    小さな変化がある。

シダが、影の下に生えている。

  日向には生えていない。

    影の下だけ。

「影が、森を変え始めているんです」



三年後・夕


三年目の秋。今度は夕方に訪れた。

「先生、森が変わったんです」

夫がそう言って、建築士を窓際に案内した。まだ夫は元気だった。少し白髪が増えたが、声には張りがあった。

窓から見る。夕日が西から差している。庇の影は、朝とは逆の方向に伸びている。東へ。

「朝の影と、夕の影は、あたりまえですが反対方向なんです」

妻がノートを見せてくれた。影の記録。

ページを開くと、そこには窓から見える森の絵が描かれている。そして、影の位置が、時間ごとに記されている。

朝六時。影は西へ長く伸びる。

昼十二時。影は真下に短く落ちる。

夕方六時。影は東へ長く伸びる。

「同じ窓から、同じ庇から、影は一日中動き続けるんです」

夫がページをめくる。季節ごとの記録もある。

春分。夏至。秋分。冬至。

影の長さが違う。角度が違う。落ちる位置が違う。

「春の影は長く淡い。夏の影は濃い。秋の影はまた長くなる。冬の影は最も暖かみと深みがある」

建築士は、ノートを見つめた。これは、ある種の建築図面だった。でも、建築士が描く図面とは違う。

これは、時間を記録した図面。

影を記録した図面。

「先生、これは日時計なんです」

夫が窓を指さす。

「この窓が、時間を教えてくれる。影の位置で、何時かがわかる。影の長さで、何月かがわかる」

確かに、窓は時計だった。光ではなく、影で時間を示す時計。

「そして、影の下で、植物が育つんです」

妻が窓の外を指さす。

朝の影が落ちる場所には、シダが密生している。湿気を好む植物。朝の影は長く、その場所は一日の大半が日陰になる。

夕の影が落ちる場所には、苔が厚く生えている。夕方の影は、午後の強い日差しを遮る。そこに、苔が育つ。

昼の影が落ちる場所には、背の低い草が生えている。真昼の短い影。でも、その短い時間の日陰が、真夏の強い日差しから草を守る。

「影が、森を三つに分けたんです」

朝の森。昼の森。夕の森。

いや、違う。

これは一つの森だ。でも、影によって、異なる環境が作られている。

「私たち、影を見守ることにしたんです」

妻が言う。

「どの影の下に、何が育つか。それを記録して、見守る」

夫が続ける。

「この家が作った影が、森を育てている。ならば、私たちは影を通して、森と対話できる」

建築士は、夕暮れの森を見た。

西日が、木々をオレンジ色に染めている。そして、窓の庇の影が、森の一部を暗くしている。

光と影の境界。

その境界に、生命が宿っている。

「先生が作ってくれた窓は、光を取り込むだけじゃなかった」

妻が静かに言う。

「影も作ってくれた。そして、その影が、この家と森を結びつけてくれた」

建築士は、何も言えなかった。

自分が設計した窓が、こんなふうに使われるとは思っていなかった。

いや、「使われる」という言葉は違う。

窓が、自分で動いている。光と影を作り続けている。

そして、住む人がそれを見守っている。

建築士は、ふと思った。

自分は何を設計したのだろう。

窓か。

それとも、時間か。



十年後・黄昏


黄昏。

窓の前に立つ。

いや、座る。

窓から森を見る。


影が森に落ちている。

十年分の影。


(これは誰の視点だろうか)


「影の下に、植物が育ちました」

(妻の声か)

「朝の影の下にはシダ。昼の影の下には草。夕の影の下には苔」

(夫の声か。でも夫は)

「影が、森を育てた」


影が育てた森。

いや、違う。

森はもともとそこにあった。

でも、影が、森の一部を変えた。

光だけでは見えなかったものを、見えるようにした。


窓ガラスに目を向ける。

ガラスに映る森。

ガラスを通して見える森。

二つの森が重なっている。

いや、三つか。


光の中の森。

影の中の森。

反射の中の森。


「窓は、三つの森を見せてくれる」

(これは誰の声だ)


建築士は、

いや、

私は、

いや、

この家は、

窓から森を見続けてきた。

十年。

いや、もっと長く。

竣工の日から。

いや、図面を描いた日から。

いや、この土地に初めて立った日から。

ずっと、見続けている。


妻が、窓際に座っている。

いや、立っている。

いや、両方だ。

座った妻と、立った妻が、同時にそこにいる。

(そんなことはない。これは記憶が重なっているのか)


「先生、影を見てください」

夕暮れの影。

それは長く伸びている。

朝の影と同じくらい長い。

でも、方向が違う。

朝の影は西へ。

夕の影は東へ。

一日が、影の中に刻まれている。


「夫は、影の中で死にました」

妻の声。

建築士は、妻を見る。

「あの日、夕暮れでした。窓の前に座って、森を見ていました」

「そして、影の中に入っていきました」


影の中に入る?

「夕日が沈む時、影はどんどん長くなります。そして、最後には、全てが影になる」

「夫は、その影の中で、静かに息を引き取りました」


建築士は、言葉を失った。

無意識に、指先が窓枠を強くつかんでいた。

それは悲しみではなく、

光と影の両方を理解した者だけが持つ、静かな痛みだった。


窓の外の森が、夕暮れに溶けていく。

あの日描いた図面の線が、今、影としてそこにある。


「でも、それでいいんです」

妻が微笑む。

その笑顔は、十年前の光よりも柔らかく、あたたかかった。

「影があるから、光がわかる。闇があるから、明るさがわかる」

「夫は影の中で死にましたが、それは光の中で生きていたからです」


その言葉を聞いた瞬間、

建築士の胸の奥で、

長いあいだ固まっていた何かがほどけていった。

影は、悲しみではなかった。

むしろ、光を包むための、やさしい輪郭だった。


終章 誰の視点



事務所。

夜。

図面を描いている。


(これは建築士か)


新しいプロジェクト。

窓の設計。

庇の出を計算する。


(建築士は、いつから影を計算するようになったのか)


光の角度。

影の角度。

どちらも計算する。


図面の上に、光の軌跡を描く。

そして、影の軌跡も描く。


光だけでは足りない。

影も必要だ。


デスクライトの光が、図面に影を作っている。

(誰の影だ)

ペンの影。

手の影。

自分自身の影。


影だらけの図面。

でも、その影があるから、線が見える。

影がなければ、図面は真っ白に見えるだろう。

光だけでは、何も見えない。


窓の外、月が出ている。

月の光が、事務所の床に影を作る。

デスクの影。

椅子の影。

窓枠の影。

影が、部屋の形を描いている。


——あの家の影も、今もどこかに伸びているのだろうか。

——あの窓の前で、妻はまだ森を見ているだろうか。


いや、きっと、窓が見ている。

彼女を、森を、そして自分を。


建築とは何だろう。

光を取り込むことか。

それとも、影を作ることか。


いや、両方だ。

光と影の間に、建築がある。

どちらか一方では、建築は成立しない。


光だけでは、まぶしすぎて何も見えない。

影だけでは、暗すぎて何も見えない。

光と影の間——その境界に、ものが見える。

そこに、建築がある。


図面に戻る。

新しい線を引く。

窓の位置。

庇の出。

そして、その影が落ちる位置。


影が、何を照らすだろうか。

いや、照らすのは光だ。

影が、何を隠すだろうか。

いや、隠すのではない。

影が、何を見せるだろうか。


そうだ。

影は、見せるのだ。

光が見せないものを。


ペンを置く。

図面を広げたまま、デスクライトを消す。

月明かりだけになる。


図面の上に、月の影が落ちる。

窓枠の影が、紙の上を横切る。

その影の中に、描いたばかりの窓がある。


——影の中の窓。

それは、静かに光を待っていた。


やがて朝が来る。

太陽が昇る。

光が差し込み、影が動き始める。


建築士は、

いや、私は、

いや、窓は、

それを見続けるだろう。


光と影の、

終わらない対話を。


(了)

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窓、または影の記録 ― 建築士の十年 ― 木工槍鉋 @itanoma

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