スズキの異世界転生

さくら

『スズキの異世界転生』

急ブレーキの音が響いた。

金属が軋むような悲鳴が、夜の通りに広がった。

次の瞬間、鈍い衝突音。

遠くで誰かが叫び、タイヤの焦げた匂いが風に混じった。

やがて、けたたましいサイレンの音が近づいてくる。


---


……そこまでしか、覚えていない。


気がつくと、私は見知らぬ場所にいた。

柔らかな陽の光が差し込み、草の匂いがする。

地面は柔らかく、土の温もりが掌に伝わってきた。

空は驚くほど青く、空気は澄み切っていた。

舗装された道も、ビルの影もない。


――ここは、どこだ?


体を起こした瞬間、違和感を覚えた。

手足の感触が、どこか違う。

自分の体ではないような感覚。

鏡がないのに、顔が違うとわかる。

皮膚の下に流れる鼓動が、まるで別の誰かのもののようだった。


私は、自分の名前を思い出そうとした。

しかし、何も出てこない。

記憶が霞のように散っていく。

交通事故――その言葉だけが、ぼんやりと頭の中に残っていた。


誰かが声をかけてきた。

穏やかな顔をした青年だった。

心配そうに私を覗き込み、「名前は?」と尋ねてくる。


口を開こうとすると、自然に言葉がこぼれた。

「……スズキ」


自分でも驚いた。

なぜその名前が出たのか分からない。


彼はうなずき、「スズキさん」と私を呼んだ。


---


この世界での生活は、とても心地よかった。

何を食べても美味しく感じた。

日差しは穏やかで、風がやさしく頬を撫でた。

近くの子どもたちと遊ぶ単純な遊びも、楽しくて仕方がなかった。


そうするうちに、少しずつ記憶が戻り始めた。

私は、食事をただのエネルギー補給だと思っていた。

何を食べても味がしなかった。

それが、当たり前の生活だった。


思い出すのは、仕事のことばかりだ。

毎日、同じ時間に同じことを繰り返す。

それが人生だと思っていた。

けれど、それは「生きている」と呼べるものだったのだろうか。


私には、ひとりの相棒がいた。

同じ職場で働いていた人だ。

無口だが、優しい人だった。

一緒にいる時間は悪くなかった。

ときどき、仕事の合間に小説を読んでいた。

「また異世界転生ものか。最近、多いよな。まぁ、好きだからいいけど。」

独り言のようにつぶやいていた。


私はその話に興味を示さなかった。

けれど今になって、その言葉を思い出す。

もしあの人が今の私を見たら、どう思うだろうか。


---


日々が静かに過ぎていった。

ここでの生活は穏やかで、心が静まるようだった。

しかし、どこか物足りなさを感じるようになった。


夜、星空を見上げながら思う。

――あの人に会いたい。

もう一度、一緒に仕事がしたい。


そんな願いを抱いたある日、

目の前の景色がゆっくりと溶けていった。


気づくと、真っ暗な空間にいた。

上下の感覚もない。

そこに、柔らかくも力強い声が響いた。


「聞こえるか」


声の主は、自らを“神”と名乗った。

私をこの世界に導いた存在だという。


神は静かに告げた。

元いた世界の“私”は、まだ完全に消えていない。

深い眠りの中にいるだけなのだ、と。


「選べ」

神は言った。

「元の世界に戻るか。この世界で生き続けるか」


私は考えた。

この世界は穏やかで、満たされている。

ここにいれば、平和なまま生きていける。


だが、その時、私の中で何かが弾けた。

記憶が一気に流れ込んできたのだ。


――事故の瞬間。


私はひかれたのではなかった。

ひきそうになったのだ。

歩道から飛び出した人影。

ブレーキが踏み込まれる。

相棒の声が、すぐそばで響いた。

トラックは壁にぶつかり、私は意識を失った。


相棒は怪我をしたが、命に別状はなかった。

もうすぐ仕事にも復帰するらしい。

私が目を覚ませば、また一緒に働ける。


私は静かに、しかし確かに神に言った。

「戻ります」


神は何も言わず、ただうなずいた。

闇が白く光り始め、世界が遠ざかっていく。


---


元の世界に戻った私は、以前と同じように相棒と仕事をしている。


事故のあの日から、相棒は以前より慎重になった。

ハンドルを握る手つきも、どこか丁寧だ。


昼になり、いつものガソリンスタンドで食事をとる。

私は燃料でお腹を満たし、相棒はコーヒーを飲む。


洗車を終えたばかりの私は、

白いボディを太陽にきらめかせている。

エンブレムの“SUZUKI”の文字が、まぶしく光っていた。


エンジンの鼓動が心臓のように響く。

相棒と荷物を乗せて、アスファルトの上を滑るように進みながら、私は思う。


――今日も、よい走りができそうだ。

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