第4話

セリスは、静かに息を整えた。

少しだけ間を置いて、声の調子を変える。

今までよりもわずかに柔らかく、けれど慎重に言葉を選ぶような口ぶりだった。


「――ここからが、本題です。

 異界管理局は、あなたを実験体のままにしておくつもりはありません。

 正式に、運用対象として迎えたい。

 内部所属、監視下ではありますが、

 あなた自身の意思で行動できる立場を提供します」


平坦な声の奥に、微かな熱が宿っていた。

職務上の説明にしては、どこか切実さのようなものが混じっている。

その理由は、表情からは読み取れない。


「これは名目上、“実験体運用の実地研究”という形になります。

 けれど実際には――“人として生きる場所を与える”という意味でもあります」


そう言ったとき、一瞬だけセリスの視線が揺れた。

資料の文字ではなく、ガラス越しの“私”そのものを見たような、

ごく短い、しかし確かな視線。


ただの官僚の目ではなかった。


「あなたには、“特殊行動課”の現地指揮支援員を任せたいと考えています。

 界蝕の発生現場で、越境反応の観測データをもとに指揮を下す。

 可能視ポテンシャルサイト

 ――あなたのその能力は、他の誰にも置き換えられない。

 未来の断片を読み取れる者が、現場の判断を支える」


並影覚。

その言葉と同時に、視界の端が一瞬だけ暗転する。

光が反転するあの感覚の残滓。

脳裏に沈んでいた記憶が、かすかに揺らめく。


可能性の断片が割り込んでくる感覚がわずかに蘇る。

セリスは、その揺らぎに気づいたようには見えなかった。


「危険な任務です。

 けれど、あなたの力が人を救う。

 そういう意味では、もっとも“生きている”場所かもしれません」


彼女は淡々と続けるが、言葉の端に隠しきれない何かがあった。

祈りにも似た響き。

あるいは、同じ場所を知っている者の声。


「この提案を受け入れれば、あなたは“4-05”としてではなく、

 ――名を持つ存在として再登録されます」


ここでセリスはわずかに視線を落とし、言葉の重さを噛みしめるような間があった。


「その代わり、もう一度“異界”に踏み込んでもらうことになる。

 界蝕の現場へ、深度越境者として」


 次の言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。

 説明でも、通達でもない。

 まるで“選択肢”を提示するような声だった。


「強制ではありません」


柔らかな響きの奥に、逃げ道の少なさがあった。

後方の職員がわずかに目を細める。

言外の圧力を、彼も理解しているのだ。


「――どうしますか、“4-05”。」


面会室の中に沈黙が降りた。


スピーカーのノイズが遠ざかる。



空調の音すら消えたような静けさの中で、

セリスの言葉だけが、まだ頭の奥に残響していた。


――どうしますか、“4-05”。


頭に残るその声は、命令と選択の境界にあった。

選ばなければ、二度と白い部屋の外には出られない。

生かされるが、生きられない。

それだけは本能的に理解できた。


だからこれは、選ぶというより――

与えられた道を、自分で歩くと口にするだけの行為。

それでも、決断という言葉はきっと、こういう瞬間のためにあるのだろう。


「……わかりました。引き受けます」


あの日、私という存在は死んだ。

――そうだったはずなのに。


きっと、笑える話だ。

死者が、もう一度“生きること”を許可されるなんて。

しかも、世界の狭間で。

それでも、ここで止まっているよりは――ましだ。


声を出すと、スピーカーが微かに反応した。


セリスの口元が、ほんのわずかに動いた。

それが笑みなのか、ただ呼吸を整えただけなのか――わからなかった。


そのわずかな動きと同時に、空気が変わった。

何かが動いた気がした。

それが外の世界なのか、私の中なのかはわからない。


選んだとは言えない。

それでも、自分の意思で“声を出した”という事実だけは、

確かにここに残った。


誰かに与えられた選択肢の中であっても、

それを選んだのは――私だ。

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