第3話
セリスは資料に軽く視線を落とし、マイクに口を寄せた。
「まずは本人確認と現在に至る経緯からですね。形式上の確認になりますが――少しだけお付き合いください」
スピーカー越しの声は、事務的な響きの奥に、わずかな柔らかさを残していた。
「あなたの登録番号は《VP4‐05》。間違いないですね」
彼女の問いは、質問というより習慣の一部のように滑らかだった。
私はただ、視線で応じた。
セリスは小さく頷き、書類の端を指で押さえる。
わずかにページをめくる音が響く。
セリスは資料を一枚抜き取り、視線を落とした。
「次に、あなたの記録を確認します」
淡々とした声がスピーカー越しに響く。
抑揚のない調子なのに、妙に耳に残った。
「六月二十二日、交京特区・白凪。汀ノ杜公園で発生した界蝕現象――
現場の中心域にいたあなたは、対策庁救助部隊により発見、保護。
当時の記録によれば、意識は混濁、身体的損傷は軽度。
しかし越境反応値の異常を確認。変性区分に基づきレベル5での対処措置を適用。
その後、反応値の漸減が確認され、現在はレベル4準拠の管理運用へ移行」
セリスは書類を指でなぞりながら、滑らかに読み上げていく。
その声には冷たさも温度もない。ただ、事実だけが空気を震わせていた。
「現場は発生から三時間で封鎖。翌朝までに収束処理完了。
被害規模は小さく、死者ゼロ。
――この点は不幸中の幸いですね」
ほんのわずかに口調が和らぐ。
けれど、それは慰めでも感情でもなく、単に“言葉の呼吸”だった。
「ただ、あなたの救助位置が問題になりました。
解析結果では、界蝕核――いわゆる世界の特異点、
そのすぐ近くにいた、もしくは接触した形跡がある。
通常なら即死領域です。にもかかわらず、あなたは生存していた。
それも、明確な異常反応値を伴って」
セリスは顔を上げ、こちらを一瞥した。
まるで反応を測るように。
「その後の観察で、複数の身体異常が報告されています。
視覚偏位、感覚の跳躍、そして――予知的な反応。
これらのあなたの特質を総称して、
現在は“
紙がわずかに音を立てた。
彼女は新しい資料を手に取り、言葉を続けた。
「以上が当施設での記録です。
……ただし、公式の記録上では別の扱いになっています。
同・界蝕発生から三時間で現場を封鎖、翌朝までに収束処理完了。
物的被害は限定的。――人的被害、あり」
わずかな間を置いて、淡々とした声が落ちた。
「死者一名。同・公園にて発見――“あなた”です」
胸のどこかで、以前から薄い霧のように漂っていた予感があった。
それは「そうかもしれない」程度の、掴みどころのない影にすぎない。
だからこそ、言葉として突きつけられた瞬間、
霧が一気に凝固し、はっきりとした重さを伴って落ちてきた。
喉の奥が、わずかに詰まる。
その事実に驚きというほどの強い反応はでなかった。
ただ、答えが偶然にも自分の中の空白にはまり込んでしまったような、
そんな小さな衝撃が内側を静かに揺らした。
彼女は目を上げた。
ほんの一瞬、視界の透明度が落ちる。
スピーカー越しの音が、一瞬だけ歪む。
その揺らぎをまるで気に留めないように、セリスの声が続く。
「現場当時、救助報告は未送信のまま破棄扱いとなり、
正式な記録上では“発見遅れによる死亡”として処理されています。
以後、保護記録はすべて秘匿。あなたの存在は現在、抹消状態にあります」
淡々と受け止めようとしたが、
言葉の端々が今になって“確かな形”を持ちはじめる。
今までぼやけていた境界に、急に輪郭線を引かれたようだった。
資料を閉じる音が響く。
その静かな音が、固まった事実の表面に最後の印を押したように感じられた。
セリスは一度、資料から目を離す。
指先でページを整え、声の調子をわずかに落とした。
「ここから先の説明は、秘匿指定にあたります。
記録には残しません。公式の議事にも、文書にも。
――ここだけの話として、聞いてください」
その瞬間、後方の男性職員の表情がわずかに動いた。
眉が小さく寄り、口元が硬くなる。
それでも、彼は何も言わなかった。
ただ、視線だけが一瞬セリスへ向かう。
押し殺した不快感が、空気のわずかな揺れになって伝わった。
セリスは構わず言葉を続けた。
「この国では、異界との接触者のうち、
深度基準を超えた者――運用上は等級四以上を、
“法的死者”として扱います。
行政上の呼称は『越境特例』。
戸籍、財産、選挙権、すべての権利を一括で凍結し、
対策庁の管理下に置く制度です」
資料を指で軽く押さえるわずかな紙の音がマイクを震わせた。
「理由は三つ。管轄、リスク、社会影響。
現行の社会の枠組みでは対処できず、
存在そのものが行政上の“不安定因子”になる。
……ですから、公式には“死亡”とする。
死者にしておけば、何も起きない。――そういう考え方です」
セリスは淡々とした声で、ただ事実を並べる。
後ろの男性職員は、聞きながら視線を落とした。
表情にはさらに不満の影が滲む。
一度、紙を整える音がした。
セリスは一拍置いて、言葉を選ぶように続ける。
「では実際に、あなたたちはどこへ行くのか。
答えは単純です。対策庁の“研究部門”に分類されます。
つまり、法的には実験体の扱いです。
収容、観測、記録、検証――
すべては管理下で行われ、その範囲の中でのみ生かされている」
背後の男性の顔に、深い諦めの色が差した。
何も言わず、ただ小さく息を吐く。
セリスは視線を上げる。
「“4-05”という番号は、あなたの識別記号であると同時に、
実験体管理台帳の登録番号です。
人ではなく、サンプルとしての登録番号。
……ただし、あなたの場合は、それでもまだ“マシ”な部類です」
その声には、かすかに苦味が滲んだ。
だが、すぐにその色を引き取って、事務的な調子に戻る。
「私は、その“番号”を――“名前”に戻す機会を持ってきました。
それが、今日ここへ来た理由です」
静寂。
スピーカー越しの呼吸音すら、空気に溶けていく。
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