第5話
「……確認しました。
あなたの意思として、正式に受理します」
その声音には、先ほどまでの緊張が薄れ、
柔らかな響きが戻っていた。
「では、続けましょう。
改めて、あなたの今後の所属先について説明します」
紙を軽く整える音。
声の調子は穏やかで、事務的というより説明に慣れた語り口だった。
「あなたが配属されるのは、“特殊行動課”です。
通常の対策部門の対応範囲を超えた、異常度の高い界蝕――
既存の制御体制では抑えきれない領域に介入するための課です。
現場での異界反応値の測定、
現象の抑制、越境者の保護。
いわば、“異界の境界線で動く最後の調整班”といったところですね」
スピーカー越しに、軽い息の音が混じる。
それは説明の合間に入る、ごく自然な呼吸だった。
「そして、それらの作業を現場指示系統の中核として統括するのがあなたの役目です
断片視の特性が、異界への即応体制に有効と判断されています」
そこで言葉を少し区切り、セリスは声を和らげた。
「ここまでに何か質問は?」
セリスの言葉が空気の上で静かに止まった。
何かを聞こうとして、やめた。
頭のどこかで整理しようとしても、言葉が形にならない。
聞くよりも前に、飲み込まなければならないことが多すぎる。
結局、私は何も言えなかった。
セリスは、こちらの沈黙を見ても何も言わなかった。
状況を察したように小さく息を整える。
「……無理に今、答えなくても大丈夫です。
聞くだけでも十分ですから。
それに、話をする機会はこれからいくらでもあります。
そのときに、必要だと思ったことを聞いてください。」
その声には、押しつけがましさも、急かす気配もなかった。
ただ、こちらの歩調に合わせようとする、静かな配慮があった。
一拍の間。
セリスは、そっと視線を資料へと戻し、話を進める。
ページをめくる音が、テーブル越しにわずかに響く。
指先で紙の端を軽く押さえながら、言葉を続けた。
「次に、登録情報について説明します。
これからあなたは、正式に“運用対象”として記録上の個体識別を更新します。
いわゆる――コードネームです」
言葉の響きに、ほんの一瞬の間が落ちた。
それが重さを意図したものか、それともためらいなのか、判断はつかなかった。
「形式上は“個人識別名義”ですが、作戦運用上の識別符号にもなります。
現場での通信、報告、記録に使われるあなた専用の呼称です。
希望があれば、選定に反映します」
彼女は、視線を上げた。
静かな目だった。命令でも、誘導でもない。
「もちろん、拒否しても構いません。
その場合はこちらで暫定コードを割り当てます。
……どうしますか?」
静寂。
答えを急かす気配はない。
ただ、ガラス越しの視線だけが、
こちらの内側を静かに見透かしていた。
――コードネーム。
私には無縁のはずの呼称。
それなのに、その言葉が落ちた瞬間、
胸の奥で忘れていた“呼び声”が微かに震えた。
思い当たるものなど、あるはずがない。
しかし、どこか懐かしい響きが胸の奥を掠めた。
目を閉じると、あの時の光景が脳裏を走る。
黒い空。歪んだ地平。
重なる影の群れ。
どこまでも崩壊していく世界の中心に、
何かを、確かに私は見ていた。
そして――その声が、呼んだ。
オルタナ。
音ではなく、意識の奥に直接刻まれるような響き。
その一言のあと、世界が裏返り、
光が反転して――すべてが途切れた。
気づいた時には、もう世界の“こちら側”にいた。
白い天井、無機質な部屋。
あの光景の続きを知ることはなかった。
目を開ける。
冷たい蛍光の白が、現実に引き戻す。
私は小さく息を吐き、口を開く。
「……“オルタナ”。」
声に出すと、セリスがわずかに目を細めた。
「コードネーム、ということでよろしいですね?」
私は小さく頷いた。
彼女はペンを持ち、手元の資料に記録を残し、
静かに一言、締めくくった。
「了解しました。――コードネーム《オルタナ》。」
ペンの軌跡が紙を走るたび、
途切れていた私の輪郭が、少しずつ戻ってくる気がした。
セリスは軽く書類を閉じ、整えながら言葉を続けた。
「これで登録手続きは完了です。
今後はこのコードネームで局内のすべての記録が更新されます」
そこで少しだけ声の調子を緩め、
淡々とした説明口調に戻る。
「加えて――あなたの日常生活用の戸籍情報を後ほどお渡しします。
日常の身分証の提示にはそれを使用してください。
社会的には“存在している人間”として扱われます」
その言葉は事務的な説明に過ぎないはずなのに、
どこか“生きること”を再確認させられる響きがあった。
セリスはマイクへ体を寄せ直し、軽く息を整える。
「――手続きは、以上です。
これより早速、管理局へ移動してもらいます。
迎えの職員が案内しますので、指示に従ってください」
軽やかな声。
けれど、その瞬間――後ろの職員がわずかに身を乗り出した。
「……ロウ統括官、それはいくらなんでも早すぎます。
登録完了前に移動とは、前例が――」
セリスは彼を見なかった。
ただ、手元の資料を揃えながら、静かに遮る。
「問題ありません。
運用、判断は我々、異界管理局に一任されてます。
現場運用もあなた方へすでに通達済みですので」
「しかし――」
「これは決定事項です」
彼女の声は穏やかで、それでいて切り返しが早かった。
ただ、次の手順へ進むことを“当然”としている口ぶりだった。
職員は小さく息を吐き、低くこぼした。
「……こういう決定、あとで全部こっちに面倒が回るんですよ」
その声には、反発よりも諦めが混じっていた。
セリスは聞こえていないふりで、資料を静かに閉じ、
再びマイクに口を寄せた。
「それでは、行きましょうか」
扉のロックが外れる。
廊下の空気が部屋へと流れ込んできた。
だが、セリスは席から動かなかった。
資料を整える手を止めず、言葉を継ぐ。
「私とはここまでです。
続きは、外で待機している者に伝えてあります。
移動と当面の案内は、そちらが担当します。
わからないことがあれば、まずは彼に聞いてください。
必要な情報は共有してありますから」
そう言うと、セリスはわずかに姿勢を正し、ガラス越しに静かに告げた。
「ようこそ、異界管理局へ。――オルタナ」
その瞬間――
パシュッ。
乾いた微音とともに、
仕切りガラスが一気に白く染まり、
セリスの姿は見えなくなった。
界蝕 @kan-pan
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