ドキュメント31

 どこからか声が聴こえて目を開けると、黒い闇だった。僕は暗い洞窟にでもいるのかと思ったけど、僕はただの日本人なのでそれはありえない、と思ってその闇はただ暗いだけだと気がついた。


 顔を上げるとすぐ目の前に見知らぬ顔があって、僕の顔を見たその誰かは「あああああっ──!!」と悲鳴を上げて白目を剥いた。


 意味が分からなかった。その意味が分かる日は来ないだろうことは分かっていたけど。


 そこは教室だった。つまり僕は、小学校か中学校か高校にいるんだろうと見当をつけたけど、確証なんてどこにもない。

 仮にそうだとして、白目を剥いたまま白い泡を吹いているこいつは何なんだろう? と僕は思う。


 僕は眠くはなかった。

 そういえば思い出したけど僕は昨晩、なんだか眠れなくて外を歩いていて、夜風が気持ちいいな〜ああ〜ふうんらるんなあ〜〜♪ と歌いながらピョンピョンスキップをしていたのを思い出す。


 恥ずかしくて顔が赤くなるのが分かった。

 そのとき、ホモの松下まつしたが目の前を横切ったような気がして探すと、それは見間違いではなく実際にいた。


 松下は自他ともに認めるホモであり、ホモでありながらどちらもいけるらしいからホモじゃないんじゃないの? と前に訊いたら「それは違くて、同性愛的志向性と異性愛的志向性どっちももってるからホモではあるんよ」と答えたけど僕には難しい話だった。


 僕は教室に漂うあらゆる匂いを無意識的に分析して、この場所が高校であることを確信した。


 ホモの松下は、教室のちょうど中央に座っている僕の前を通って廊下に走り、たくさんのか細かったり野太かったりする声を突っ切ったらしい。

 僕には見えていないけど、そんな気がしていたのでたぶん正しい。


 そのあともうつらうつらとしていたら、ガタガタと校舎自体が縦横に揺れたような感じを覚えて思わず立ち上がると、松下に蹴り飛ばされて転がっていた女の子が大きな目を見開いて僕の顔を凝視していた。


 僕は「どしたの? 嫌なこととかあった?」と云うつもりがなかったのに言葉が零れた。

 女の子は産み落とされたつるつるの卵みたいな顔を真っ赤にして、僕に向かって「あああっ!」と再び悲鳴を浴びせて、でも今度は白目を剥かなかったし泡も吹かなかった。


 僕は親切心を発揮して、彼女の腕を優しく掴んで起き上がらせようとした。

 するとまた「ああっ!」と短く叫んで僕の手を払いのけようとした瞬間に、僕は鋭い痛みを感じて自分の腕を見ると、それはちぎれて驚愕した表情の彼女のすぐそばに落ちていた。


 僕もびっくり仰天で天を仰いだ。こんな事態は全然想定していなかったし、こんなにも貧弱だとは知らなかった。


 十五年も生きてきて──と思考し始めたところで僕は思い出す、自分の過去を。


 それはキュルキュルとタイヤの回る音だった。僕の父親は母親が死んでから魂の抜けた蝉の抜け殻みたいなものだった。

 つまり父親は、すっかり痴呆症の馬鹿みたいに呆けてしまって明晰さはとうに失われて、けど性欲は相変わらずだったので僕は玩具にされた。


 思い出したくなかったな、と僕は思った。僕は小学生の頃から小説だか散文だか詩だか分からない文章を無数に書き連ねて遊んでいた。

 兎にも角にも溢れる勢いに任せていた。


 …………まあ、それは置いておく。


 性欲の捌け口に利用された僕は、嫌々ながらも父親に付き合っていた。母親を愛していたからこそ、失われたときの衝撃は半端じゃなかったんだろう。


 可哀想な父さん。

 だから僕は、あなたのことを愛します。たとえ世界中のカスタードがツキノワグマに食べ尽くされたとしても、僕は。


 ……だから僕の尻に松下の怒張したペニスがぬるりと入ってきたときも滑らかで、でも彼の喘ぎはやたらとうるさくて僕は気分が冷めた。


「ああ。いいよ〜……いいよ〜……」


 松下は僕の耳に囁いたけど、僕は正直まったく良くなかった。

 かぷ、と最初は甘く噛んで、徐々に強く強く歯を立てていく。彼は少しずつ痛みを感じてきたようで、喘ぎ声に混じる快楽が弱まっていくのが分かった。


「ちぎ、ちぎれるッ……!」

「ちぎっちゃるけんのぉ〜」と僕は云った。


 けど実際のところ、僕の尻穴に挿入されていたのは父さんのペニスだったし、もしかすると松下は幻想の存在なのかもしれないと思った。


 キュルキュルと回る音が、僕の小さな耳穴にそっと入り込んできて、父親の低い声に変わった。


「──どうした、みどり?」

「…………え? あー、うん……」と僕は首をわずかに横に振って、なんでもない、と答えた。


「父さんはな、寒い冬にはノーブラノーパンにモコモコパジャマで寝ているんだ。分かるだろう、その暖かみが」とハンドルを握りながら云った。


 僕は「どうでもいいから、ちゃんと運転に集中してよ」と父親を睨みつけた。

「父さんの夜のことなんて、僕が知ったって何も変わんないし……」

「いや。変わる」と断じた父さんは、苦しげに咳払いを一つした。


「なんか、臭くない? なんか煙草臭いというか、なんというか」

 僕は鼻を啜った。堪らなく嫌な匂いで、腹立たしくてもう我慢ならなくなってくる。


 僕は微笑んだ。唐突に微笑んだ。僕は自分で自分が制御できなくなってくるのが分かった。

 グラグラと視界が左右に揺れた。


 僕は揺らいで仕方のない神経を逆立てながら、スマートフォンのメモ帳にできる限り正確に、目頭を熱くしながら頭に浮かんだ散文を書きつけた。


 ぼくはきみのことが好き

 きみはぼくのことも好き

 やわらかくあたたかい

 たんぽぽが

 あたらしく宿った

 命を

 いや

 悪くはない。

 きみはぼくに言った

 きみのことも好き

 だって


 あまりにも荒い運転の原因は深酒で、酔いの回った悪い頭のせいで父さんはノーブラノーパンがどうとか常識外れな発言をかましたのだと、僕は理解しようとしたけど、いつもそうだった気もしていたから、もう自分の頭すら信用できない気がしていた。


 僕もおかしくなっていた。結局、母親の亡霊によれば、父親は息子の僕に煙草臭さを指摘されたのが癪に障っての嫌がらせの結果、前後不覚に陥って後ろから走ってきた西原商会のトラックに追突されてフロントガラスを突き破って外へ飛び出し、全身の骨が一本残らず粉砕されて即死だったらしい。


 僕は長いこと眠っていた。母さんは、病室のベッドで眠る僕のそばに座って、幼い頃に聴いた覚えのある子守唄を小さく口ずさんでいたという話を、看護婦の今村いまむらさんに聞いた。


「…………」


 僕は深い沈黙に落ちた。何を云えばいいのか、これからどうすればいいのか、全然分からなかった。


「僕はどうすればいいんだろう……?」

「それは、あなたが自由に決めればよろしいかと」と今村さんは答えた。

「……」

 僕は黙った。


 そういえばね、と僕は云ってから、どう続きを紡ごうかと少し迷ったけど、現実に起こったことをそのまま話すことにした。


「──実は僕、もう死んでるんだ。十三歳のときにね、夢で会ったんだよ」

「どなたに?」と彼女は云った。彼女のお腹は不自然に膨らんでいるように僕には思えた。


 僕は「そうだね……、僕が会ったのは、やたらと目の下の隈がひどい奴だったんだ。どのくらいかっていえば、たぶん今の僕と同じかそれ以上だね」と云った。

 知っている、自分の顔の状態くらい。


 鏡を見なくても分かるのですか? と今村さんは無意味に微笑みを僕に渡した。

 看護婦はどちらかといえば嫌いだけど、彼女にならいくらでも看護されても構わないと、なぜだか思った。


「僕はめちゃくちゃちっちゃな頃にね、母さんに何回も何回も……たぶん数千回くらいは殴られたんだよ。いや、九百回かもしれない。よくは覚えてないけど」


 彼女はすべてを理解したような表情で一度だけ頷いて、あなたは自分の母親に殺されてしまったのですね、と乾いた調子で口を開いた。


「分からないなあ……」と僕は云った。

「分かんないから分かんないんだ」と続けた。

「そうですか」

「そうなんだよ。つまりね」と息を吸った瞬間、自分の頬が濡れていることに気がついて顔面が熱をもった。


 見ないでよ、と僕は幼い子供みたいに両手で顔を隠そうと懸命になったけど、彼女の透き通った視線に貫かれていることは自明だった。


 僕は毛布を被った。死ぬ前に父さんが着ていたパジャマと、その質感やら色合いやらがそっくりだと思った。

 それはつまり、いま僕は、父親に抱かれ包まれているようなものなんだろうか?

 あるいは、僕が生まれたときから父親なんて存在は存在していなかったのかもしれない。


 けどそんなのありえないと分かっていた。

 そうだったら、僕はまずもって誕生すらしていないんだから。


「分からないな」と僕は云った。




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