ドキュメント30
通勤客や学生たちが溢れる駅前広場は凄まじい盛りの匂いに包まれ、バスを待つ列はそのまま見知らぬ者同士が衣服を剥ぎ取り合う乱交の渦へと変わり、電光掲示板には意味をなさない淫らな文字列が走り、改札口は愛液で濡れて足を取られるほどらしいという話を、僕たち家族は朝のニュースで知った。
「どこ?」
「西鉄」と姉は答えた。
「西鉄久留米駅?」と母親は訊き返した。
姉は声を出さずに頷いた。僕はムラムラした。けれど黙っていた。僕は真面目だった。
しかし僕は、死にたくなった。
「……夕焼けが綺麗すぎるのが悪いんだよ……」
「ん? なんて?」と姉は云った。
僕はしかし、早朝の静寂に身を浸していたから言葉が出なかった。…………。
家にこもってネットサーフィンをしていると、ノックもせずに姉が入ってきたから僕は盛大に慌ててパンツとズボンを引き上げた。危なかった。
もしかすると、見られていたかもしれないけれど、僕は気にもしないことに決めた。
姉は僕の膨らんだ股間のところをしばらくの間眺めていたけれど、最初から興味なんてなかったのか、何も云ってこなかった。
代わりに姉は「ねえあんた。一緒にどっか出かけようよ」と云った。ぽつりとした言葉で、それは妙にぬめっていて、僕はわずかな吐き気を喉に覚えた。
「いま忙しいから」
そう僕は答えた。
「嘘よ」と姉は云った。
「だってあんた、家に引きこもってばっかで健康に悪い」
「いいんだよ僕は。誰も僕を愛してくれないんだからさ、僕だってみんなを愛するわけにはいかないんだよ」と僕は呟いた。
わずかだった吐き気は少しばかり膨張して、僕の股間は逆に萎れた薔薇だった。
僕はちょっと唸ったあと、吐き気がするから無理よ、と声を絞った。
「
「やめてよ。あのね、僕はその名前好きじゃないし認めてないんだ。そんなダサい名前より、
僕の声は、ため息と怒りの息が入り混じっていたと思う。
「そっちのほうがダサいと思うけど」
「はあ!?」
拳をぎゅっと握った僕は、一歩踏み出そうとして、気がつく。
いつの間にか、萎えていたちんちんがギンギンに固くなっていることに。
恥ずかしそうにピョコッと存在を主張するちんちんを見て、姉はこう云った。
「ほんとに気持ち悪い……。いいよ。わたし一人で行くから」
姉はさっさと部屋から出ていった。
僕はその去っていく太腿を舐め回したいと、本気で強く思っていた。
自室にある三十二インチテレビに映る淡い金髪の気象学者が何かをゴタゴタ喋っている。
『──これは日本だけの問題ではないのです。久留米市で起きたあの騒ぎは、もちろん私も参加しました。あまりにも魅力的で仕方なく。誰の責任でもなく……これは、ある種の地球という星からのメッセージだと考えるべきです。御井小学校でかつて起きたUFO事件のように、あらゆる事件の発端は久留米にあるのです……、これは私だけの確信ではない……、私の親愛なる恋人である
長々と意味不明な言葉を垂れ流した男は、姉のそっくりさんの肩を愛おしそうに抱いて、やけに緩慢な動作で用意されていた椅子に座らせた。
僕はちんちんを握っていた。やたらと下半身が寒くて寒くて、エアコンをつけようと思ったけれどリモコンがなく仕方なかった。
そしてティッシュもない。残念だけれど、テレビ画面にぶっかけるほかないようだった。
僕はものすごい勢いで手を動かした。
気が変わった僕は、電話をかけることにした。
そっくりさんは何事かを語っているけれど、声が小さすぎるのか枯れているのか、まったくといっていいほど聴こえなかった。
音楽が鳴っている最中は踊り続けなければいけないように、僕は知ってる人に電話をかける。
「こんちは」
『…………こんにちは』
「最近どうですか? 何か楽しいことありました? それとも、悲しいこと苦しいこと、たくさんありましたか?」
『……えっと、あの……、誰ですか……?』
「僕だよ。知ってる?」
『……さあ。よく分かりませんけど……』
「黄泉だよ黄泉。かっこいい名前でしょ」
『!』
息を吸う音。聴こえた音はそれだけで、僕はなんだか嬉しくなる。意味が分からないと思うけれど、そういうことなんだよ。
『ヨミさんですね! 何かご用意しましょうか? 何が欲しいですか?』
「可愛い女の子、ありますか」
僕は云った。ふざけて云ったけれど、年若そうな女の声は嬉しそうに答えた。
『あります! 私はいかがですか?』
「……うーん」
『何か、ご不満でも……?』
「……」
不安そうな声。こういうのを耳にすると、僕のほうも不安が膨らんできて、息が浅くなってしまいそうで息が詰まった。
ハアハア空気を肺に集めようと懸命に喘いだ僕は、再び勃起していた。構わずパンツを穿いてズボンを穿いた。
テレビの中で、今村氏はまだ喋っている。けれども、分からなかった、何を喋っているのか。
金髪を揺らした気象学者の男は、今村氏に合わせて手を頻りに叩いたり揉んだり忙しそうで、僕は無性に苛立ってきた。
「むかつくなあ……」と僕は呟いた。
『はい? 何か云いました? 私でいいって意味ですか?』
「嬉しそうだね、やたらと。僕はちょっと疲れてきてね。ストレスで髪の毛が一本残らず消えちゃいそうだよ……」
『へえ、面白い冗談ですね!』と彼女は云って、高い声で早口で何かしらをゴタゴタ喋り散らかしていたけれど、僕にとっては小鳥のさえずりのほうがマシなくらいだった。
今村氏は席を立つ直前、カメラ目線になって云った。
『わたしには死んだ兄がいます──』
それに対して、男は『君に兄弟姉妹は一人もいないよ』と答え、立ち上がった今村氏にぴったり寄り添って『それでは、さよなら! 皆さんどうか、お幸せに。最期まで後悔しない選択を、どうか──』と落ち着いた調子で云って締めた。
僕はため息をついた。そういうことなのだ。
項垂れたまま、僕は云った。
「僕は弟だよ、姉さん」
「呼んだ?」と、いきなり声が至近距離で響く。
僕は驚いたフリをしようとして失敗して、あーとかやーとかいーとか口の筋肉を最大限活用して唸ったあと、項垂れすぎてチェアから転げ落ち、額を思いきり床に打ちつけて悶絶した。
「仁、なにやってんの」
「…………」
僕は気を取り直して姿勢を整えてから、湧き上がる怒りに任せて力任せに姉にタックルした。
姉はするりと不自然なまでに自然な感じで僕を避け、僕の襟首を掴んで引き倒した。
姉は云った、僕の鳩尾をその足で踏みながら。
「あんた。いつもまともじゃないけど、今日はいつにも増しておかしいよ? 変なものでも食べたんじゃない」
「……まず……その足、どけろ……」
「あ、ごめん」と姉はどけ、やっぱりやだ、と云ってまた踏みつけた。
僕は醜いアヒルみたいな奇声を発し、ごろごろと転がっているうち、視界に見たことのないコマーシャルが入ってくる。
僕はそれを見て、姉と顔を見合わせた。
「どけてよ!」
僕は叫んだ。姉は形すら崩れた甘ったるい謝罪をかましたあと、本当に足をどけてくれたから僕は驚愕のあまりに気を失った。
目を覚ましたとき、僕は自分が夢を見ていることに気がついた。確実に夢。
夢の中で僕は全裸で住み慣れた町内を練り歩き、電柱のそばに放って置かれた犬の糞を無様にも踏んで絶叫して、その叫び声に気が散ったお婆さんは脚を滑らせて階段を落ち頭から血を流していた。
僕は夢だと理解していたからいつもより大胆になって、おちんち〜〜ん! と大声で云いながらお婆さんに駆け寄った。
僕の不気味さに怖気づいたのか、誰一人として近づいてはこなかった。
いや、違った。僕の愛しい妹の
僕も抱きしめたけれど、有海は吐き気を堪えるような表情へと変わった。
とてもよく似ていると思った。僕の顔と。
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