ドキュメント29

 目元を隠すようにぐるぐると白布を巻いた老人は唾を吐いた。

 吐かれた唾は最初、どす黒い泥のようであったがやがて金色に変化し、そこからたくさんの金貨が溢れた。

 老人は金貨の海の中から一枚を選び出し、そっと臭い息を吹きかけた。すると、その臭気を嫌がるかのように老人の手の上で金貨が踊り出し、その形を徐々に変化させていった。


 それは人となった。まだ幼さの残る顔立ちの少年が、手の上から離れてくるりと宙で二回転して着地した。

 その背丈は一寸でも二寸でもなく凡庸であり、ごく平均的な日本人の少年と同様であった。

 老人はぷるぷると震えの止まない人差し指で少年を差して云った。

「お前は、天邪鬼と名乗れ。お前は永劫、ひねくれ者のまま死ね」

「やだよ。だって僕は天邪鬼だもん。そんな普通な名前じゃ嫌だ」

 彼はそう答え、ここはどこ? と訊ねた。

「ではお前。何と名乗る?」と老人。

 それに対し、少年は素直に答えず黙った。


 二人はしばらくの間睨み合ったが、決着がつかないと思ったのか、老人はため息を吐いて「まあ良い」と云った。

「この場所は見ての通り、ごく普通のマンションの一室だ。私はこの部屋に住んでいる普通の老人だ」

「……確かにそれっぽい。僕は信じるよ」

 そう彼は頷いたが、その内心は分からない。

「そうか」と老人も頷き、背中まで垂らした白髪の中に手を差し込んだ。少年はわくわくした。

 彼はこう考えた。

「きっと、あの髪の中からは可愛らしい人形みたいな女の子が、どわっと出てくるに違いない!」

 彼は、足りない頭で妄想を広げた。


 実際はどうだったか。

 実際のところは、女の子など現れるはずもなく、出てきたのは一本のペティナイフであった。

 少年は「なあに、それ?」と訊いた。

「知らないのか」

「いや、知ってるよ? 知ってるけどあえて訊いてみたんだよ」と訳の分からない返答をした。

 彼らはきっちりとした姿勢で床に正座し、向かい合い、ほとんど家具のない殺風景に満足とも不満足ともつかない感情を抱いていた。


 つまらない場所、と少年は思ったが、老人はすでにこの空間に慣れてしまって何も感じなかった。

「……というか、あんたそれ見えてんの?」

 少年は首を傾げた。

 老人は「見えている。お前の脳細胞が一つひとつ死んでゆく様子までも、な」と嘘か真実かも不明な言葉を吐いた。

 そして、老人は少年にそのナイフを手渡した。

「……んで。これをどうしろって?」

「分からないか?」

「分からないよ。僕はね、僕自身のことさえあやふやなんだ。知らないものは知らない、ただそれだけでしょ」

「……」


 少しの間、老人は唸った。少年は「腹でも痛いんかな……?」など馬鹿なことを考えていたが、静謐に堪えられない彼はあっけなく沈黙を破る。

 パシンパシンと小さくフローリングを叩き、般若心経を一から唱え出したのを見て、老人は項垂れるように深く息を吐いた。


 割と最初のほうで唱えることに飽きを覚えた少年は口を閉じ、じゅるじゅると口内で唾と舌を絡めて遊んだのち、云った。

「飽きた。ぜんぶ飽きちゃった。僕もう我慢ならないよ!」

「……」

 ふすぅ……と息を吸った老人は云う。

「私が誕生させてやったというのに、感謝の言葉ひとつもないのか」

「…………」

 少年は黙ったまま、土下座するように頭を床に擦りつけた。

 良かろう、と老人は答え、そのナイフで……私を殺してくれ、と呟いた。

「無理だよ」と少年は云った。

「僕は誰も殺したくない。みんなに祝福されて愛されて、そんな巨大な愛に塗れて死んでしまいたいんだよ」

 だからお断りだね! と叫んだ。


「──僕にはね、大切な友達がいっぱいいて、そういう人たちを悲しませないためにも無理なんだ、殺すのは。だってあんたにもいるでしょ? 大切で大切で堪らない誰かがさ……」

 そう喋りながら、少年は自然と涙ぐんでいたので、この涙は愛ゆえに流されたものだと悦びに身体を震わせた。

 少し気持ちをすっきりとさせた彼に対し、老人のほうは少しも気は明るくならなかった。老人は、年若い男の子に刺殺されたいという願望をもっていた。





 時が流れるのは想像よりもずっと早く、気がつくと大学生になっていた。

 僕は趣味で小説を書いていた。

 恥ずかしいから誰にも云ってないけど。

 そういう書く作業は、ありえないほどたくさんの時間を食った。


 気づくと時間は無限に経ち、無限は数時間へと還元された。そんな感じだった。


 僕は福岡県久留米市御井町にある久留米大学に入学していた。試験を受けた記憶も、志望校として選んだ記憶もなかったけど、とにかくそうなっていたなら仕方がない……と僕は納得した。

 御井町ではいろいろと変な事件が起きていた。


 たとえば、妻を亡くした夫はそれから毎晩のように枕元に死んだ妻が立ち、般若心経を何度も唱えて睡眠を妨害してきたり、鈴木ツトムという青年と鈴木ミワコという女性との間に生まれた三つ子ちゃんが実はみんな転生者であったり、とある市内の小学校グラウンド近くに新設された学童保育所の建物が深夜、常識では考えられないほど巨大な裸の七歳児の手のひらによって倒壊させられたりと、兎にも角にも不思議でいっぱいだった。


 実家のある山口県山口市から車で一時間半くらい久留米に向けて走っていた頃、一緒に乗っていた祖父がいきなり般若心経を唱え出して、偶然もっていたアーミーナイフで自分の首を掻っ切って窓から身を乗り出して死んだ。


 つまり、落ちて死んだ。血をダラダラと流しながらもまだ息をしていたけど、高速道路を走っていた西原商会のトラックのタイヤに圧し潰されて完璧に死亡した。

 それでも、僕の妹は動揺すらせず運転を続けた。


 彼女は運転が好きだったらしい。すぐに祖父の異常には気づいたけど特に気に留めず、途中で寄ったサービスエリアで二百七十円のサンドイッチを買って、僕は彼女にそれを食べさせる役を務めさせられた。

 嫌ではなかった。


 さっさと食べ終えると、妹の有海うみは初めて僕の名前を呼び捨てにした。

「サンドイッチがわたしをそうさせたの」

 そう云いはしたものの、そんなの理由になるとは思えなかった。


 それから三十分ほど走った頃、僕は隣に座る母親と一緒にアジの南蛮漬けを食べていた。

 僕は母親の歳を知らないけど、とても若々しく、有海と並べば姉妹にしか見えなかった。


 僕は「どうしてそんなに若いの? よっちゃんがさあ、母さんのこと僕の姉かと思ったってこの前云ってたよ」と云った。

 よっちゃんとは十歳からの付き合いで、もうすぐ五年になるところだった。

 よっちゃんは僕の顔が好みだから友達になってあげると云って、僕の左頬に突然キスをしてきたのをよく覚えている。

 いや、たぶんずっと忘れられないと思う。


 そのとき僕も「僕も、よっちゃんの好みの顔に生まれることができて嬉しい」と云ったはずだけど、あまり自信がない。捏造された記憶かもしれないけど、綺麗なものはそのままで、嘘なら嘘のままでいいような気がしていた。


 よっちゃんは十三歳のとき、十二月二十七日から一月四日にかけて非常識な量のお餅を胃に収めたせいで激太りして、数えきれない数の誹謗中傷と「ライオンの餌にしてやる!」という僕の暴言に堪えかねて一時期は自殺しそうな感じがビンビンだったけど、二月に入る直前くらいに何か決心したようでダイエットを開始、あっという間に元の体重に戻ったらしい。


 やれやれ世話かけやがって……と僕は思ったけど、本心ではただ嬉しかった。訳も分からず、まだ子供だった僕には嬉しくて堪らなかったのだ。


 みどりは何もしてないし、むしろ私を傷つけただけじゃん、とよっちゃんは云ったけど、彼女だって笑いを溢していた。


 幸福だった。僕は間違いなくそうだったし、よっちゃんもたぶんそうだった。

 よっちゃんが十四歳を迎えた日の朝、僕は彼女の誕生日を祝うために前日から準備をしていた。


 僕はもう十四になっていて、有海の誕生日はよっちゃんとかなり近かった。そのせいか知らないけど妹はよっちゃんを大嫌いと云い、僕が彼女を家に招くと有海はほぼ毎回猫みたいに威嚇して、たまにペティナイフでよっちゃんの腋のそばに浅い切り傷をつけていた。


 イヤーカフ型のイヤホン(定価一七八〇〇円)をつけてエロASMRを聴いていた僕は夢中で性欲に溺れ、途切れ途切れに響いてくるくちゅくちゅとした水音に簡単に興奮してやばくて、語彙力を喪い両目をギュッと閉じていた。


 凡人であれば勃起しているんだろうけど僕は違って、ASMRを聴くことは芸術作品を鑑賞するのとまったく同じだった。

 つまり普通だった。


 僕は一人で椅子に座っていた。この椅子が幾らするのか知らないけど、たぶん唐揚げ専門店で売ってるチュロスくらい安いと思う。いや、あんまり安くないかもしれない。

 別に座る必要はないんだけど、そうすべきだと思ったからそうしていた。


 するとノックが響く。

 妹だったらノックなんてしないし、じゃあ一体誰だろうと思って、テーブルに置いていたスマートフォンを手に取る。

《今さ、誰かが僕の部屋をノックしたんだけど》

 メッセージを送ると、すぐさま既読がついた。

《家族じゃない?》

《お前、家族なんていたっけ》

《開ければ分かる》

《開ければ分かる》

《開ければ分かる》

《開ければ分かる》

 四つのメッセージが同じだったけど、ぜんぶ違う人からだった。

 というか、僕は自分がどのグループに入っているのかもそのメンバーが何者なのかも知らない。


 このスマートフォンは、誕生日に有海がプレゼントしてくれたものであり、命より大切だといえば嘘になる。

 それでも大事だった。


 再びノックがあった。もし家族だとしたら、僕を呼ぶか何かするだろうから、よっちゃんだろうか。

 僕は彼女のことをよく知らなかった。

 なんでも知っているようで、何も知らない。

 僕には、何も分からない。

 今日が何曜日なのかも、何時なのかも──待ってよ……、時間はおそらくだけど早くて、僕はASMRを聴くのをやめて「DUET」を聴き始めていて、そうであればもう二〇二六年を迎えている。


 ということは、このノックには重要な意味があるはずだと僕は確信した。僕はなぜか高揚しだした気分を抑えるためにピルケースから睡眠薬を一錠出して飲もうとして、コップも水もないことに気づく。

 僕は阿呆だった。


 呆然として、古代遺跡を守る調停者みたいなポーズで立っていると眠くなり、僕はどうでもよくなって薬を噛み砕いて飲み下した。

 当然のように眠くなる。




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