ドキュメント26

 外は雨が降っている。窓を見ずとも判った。

 太陽や月の光に独特の匂いがあるように、雨にも雨特有の匂いがある。ゆえに判った。


 そういうふうなことを陽炎かげろうが母に伝えると、母は卓球シングルス世界一決定戦の様子を涙目で見守りながら云う。


「判らないわ」


 それだけ云い、どこかの国の重い石のように口を閉じた。その口は、二度と開くことはないのではないかと陽炎は一瞬だけ思ったが、それはありえないか、と苦笑する。

 その苦笑は死ぬる彼岸花のように色鮮やかで華々しく、あまりにも美しい。


 再び「判らないわ」と、九分ほどの時間が経った頃、母は無表情のまま(未だ涙目ではあったが)呟いた。

 陽炎はまだ幼い仔猫の小さな背を撫でて、云った。


「でもさ。ほら」


 と、自身の鼻を指差し「匂いで、絶対判ると思うけどなぁ……」と続けた。

 彼は『ほんのこども』のページを繰りつつ、おれはまだ、ほんの子供にすぎないんだな、と思っていた。馬鹿らしい。そう思った。


 陽炎の性欲の高まりは、鳩時計の針が午前十時四十二分を指した瞬間に始まった。幼い時分、彼はかつての奈津川二郎のように可愛らしく、いわゆる女の子らしさに誰もが酔った。


 仔猫はニャホ、と優しい日差しのような声で鳴き、無感動な顔つきで試合を見つめる母の目前に躍り出る。

 母は舌打ちをし、彼女を悲しい手つきで抱き上げゆっくりと床に下ろした。


「ニャホ……」

「ニャホ」と陽炎は下手な真似をし、母は無表情のガラス玉のような瞳を彼に向ける。

「やめて」と母は云った。

「なんで? 良いじゃん。ねー?」と、猫に同意を求めるように顔を覗き込む。彼女は無視をする。


 彼は「雌猫が……」と悪態を吐き、苛立ったように彼女のもっちりとした両頬をぐいぐいと幾度も揉んだ。彼女は特に反応を示さない。

 猫のくせして生意気だと思った。


 ああ! おれは哀しい! まるで……この世界で独りぼっちでいるみたいだ! と陽炎は思った。自分でもくだらないと分かっていても、そう思いたいと思っていた。愚かしい。


 この世界は、ある種の芝居なのだ。


 彼が床に寝転び猫を抱き、インド象に踏み潰されて死んでしまう夢を見ている間、母はリモコンをテレビ画面に何度も叩きつけ、「雑魚が! 雑魚が!」と全裸で土下座していた。夢かもしれない、と彼は思っていた、眠りながら。


 夢だとして、いつの間に服をぜんぶ脱いだんだろう? と不思議に感じ、生ぬるく微笑んだ。


 その騒がしさに釣られたように、陽炎の姉である不知火ふちかが下に降りてくる。二階には、不知火の友人である宮園みやぞの天華てんかが腕を枕にして寝ているのだと、姉は云った。


 彼は天華が上にいることを知らなかったが、なんとなく甘やかな香りがしていたため、二階に家族以外の誰かがいることは察していた。

 しかし、彼にとってそんなことは些事ですらなかった。


 おれにとっては……今は眠る以上の重大事なんて一つだってない……! と彼は眠りながら考えていた。すべては夢、すべては夢。


 母は二週間に一度、自身の陰毛を剃るという習慣があった。ついでに、陽炎の陰毛を剃る習慣……あるいは癖があった。

 雌猫は彼に抱かれるのを不快に感じていたが、心の片隅にあるのは、彼に抱かれる悦びだった。彼女はおそらく認めないだろうが、確かにそんな気持ちがあった。


 女は美しいものを好む。つまりそれは、仔猫であれ変わらないということだ。


 不知火は陽炎を揺り起こし、目を覚ましたばかりの雌猫は時空の狭間に飲まれた。「起きて。来て来て来て。起きて?」と不知火は弟の耳元で囁いた。

 彼は目を閉じ、「う……お、おれは……」と喉奥に糸くずが絡まったような声を出した。


 頭を揺らして咳き込むと、実際に白い糸くずが舌の上を逆流して転がり落ちた。

 悲しい愛情に首を捧げるように、彼は口を開く。


「……おれが目を開いたとき、既に世界は消滅していた。堕ちてきた天使の首はまるで、真夏の海に揉まれ冷め切った肉体を流れる絶妙な血液のように踊り狂っていた。意味が理解できないとしても、おれのことを理解してほしい。ああ! これは、これは、お、おれのただ唯一の願いといってもいいんだよ! ああ、どうか……どうか解ってほしい……! どうしてだ、どうして誰も、誰一人としておれを……解ってくれないんだ……! ありゃ、ありゃりゃりゃ。おれはどうやら、この頭がおかしくなっちまったみてえだ。おかしくなってさ、寧ろ笑えてくると思わないか? なあ? おれはそう思うけど、君らはどうなんだろうな? うひひ……いひひ……いひひひひ……!」


 姉である不知火は呆れた顔で、「いつものこと。はあ、いつものこと」と呟き、陽炎のほとんどふにゃふにゃなペニスを弄る。

 このような悪戯も、ありふれた日々の亡霊にすぎない。


 やめて、と雌猫はその小ぶりな口を開き、陽炎も壊れた傘のような声色で「やめてよ」と云った。「でも大きくなってる」と姉は云う。「それは、そうだけど……でもでも、兎にも角にもやめてって云ってるんだから、やめるべきじゃない?」と彼は反駁する。


 どこか別の場所から現れた二匹目の雌猫は、二匹目の泥鰌を狙う愚者のように笑い、「この子宮の奥にはね、ほんのりと温かい海があるのよ。ねえどうか、あなたに手伝ってほしい。どうかしら?」と云った。


 子宮なんてどこにもない、と陽炎は思った。あったとして興味などない。


 気持ち悪そうに全身をびくつかせる陽炎と、そのさまを気持ち良さそうに眺める不知火は、両者とも意味が分からないといった様子で首を傾げる。

 しばらくして、陽炎は「良いよ、暇だし」と頷いた。手伝ってやってもいい。


 駄目よ、と母はよれよれの薄っぺらいシャツを着ながら云った。

「今日は外に出ないで。危ないから」と真顔で。

 彼はムッとした表情で「危なくないよ。ねえ、姉さん?」と姉のほうを向いた途端に鋭く張り飛ばされ、母もついでとばかりに彼を十九回ほど殴った。


 みんな、笑ってる。笑っているよ?


 薄汚れたカーペットにしばらく身を横たえていた彼は、暗闇から現れた少女の影によって身体のいたるところに謎の塗り薬を塗りたくられ、ふらつきよろめきつつもしっかりと目を見開き、「ファーストダイバー!」と小さく叫んだ。「良かったわ」と雌猫は嬉しがる。そして告げる。


「こっちよ」

「へ? どこ」

「こっち」と彼女が白毛で覆われた腕を向けたのは、二階へと続く、短くも見えるし長くも見える階段だった。「外じゃないじゃない」と母は哀しそうにも嬉しそうにも見える顔を歪めた。



 天華の指先が、陽炎の喉元を這った。その感触は、生温かいナメクジが通り過ぎた後のような、不快な粘り気を伴っていた。


「ここが、あなたの終着点。あるいは、ただの胃袋の中」


 そう囁くと、彼女の背後に立つ不知火が、くすくすと喉を鳴らして笑い出した。

 その笑い声は次第に、一階で母がリモコンを叩きつけていた音と同期し、部屋の壁紙を内側から激しく脈動させる。


 陽炎はふと、自身の足元を見た。

 二匹の雌猫が、いつの間にか一匹の巨大な肉塊へと癒着していた。

 八本の足が不規則に床を叩き、一つの口から、人間の赤ん坊が嘔吐するような音で「ニャホ……ニャホ……」と連呼している。

 

「ねえ、陽炎。天華はね、他人の『記憶の毛』を剃るのが得意なの」

 

 不知火が彼の耳を甘噛みしながら、天華の手にあるカミソリを彼の眉間に押し当てた。

 冷たい。その冷たさは、冬の海に沈められた鉄格子のようだった。


 天華は無表情のまま、彼の額に刃を立てられるのを静かに見ていた。


 痛みはなかった。ただ、脳の表皮を薄く削り取られるような、不快なサリ……サリ……という音が頭蓋骨の内部に反響する。

 削り落とされたのは、彼が愛着を持っていたはずの雨の匂いの記憶であり、先程まで抱いていた孤独という名の特権だった。


「ああ……おれが消える。おれが、おれの形を保てなくなる……!」


 陽炎は歓喜に近い絶望を感じ、床に這いつくばった。

 見上げると、天井にはいつの間にか全裸になった母が、蜘蛛のような姿勢でぶら下がっている。

 彼女の口からは卓球のピンポン玉が絶え間なく溢れ出し、彼の背中に当たっては『雑魚が』『雑魚が』『雑魚が』『雑魚が』と乾いた音を立てて弾け飛んだ。


「見て、陽炎。天華があなたの本当を剥き出しにしてくれているわ」

 

 姉の声は、今や遠くの銀河から届くノイズのように思えた。

 天華のカミソリは、すでに彼の頭皮を通り越し、意識の奥底にある言葉にならない何かを削り取ろうとしている。


 陽炎は剥き出しになった脳髄で、外で降る雨の正体を知った。

 それは水滴などではなく、天から降り注ぐ無数の溜息だったのだ、何者の理解も得られなかった彼らの。


「……ねえ、もう一回だけ、あの真似をして?」


 天華が、削り取った記憶の破片を口に含み、咀嚼しながら問いかける。

 彼は、もはや自分の声がどのような振動だったかも思い出せなかったが、壊れた蓄音機のように口を開いた。


「…………ニ、ニャ、ホ……」


 その瞬間、部屋の重力が反転した。


 天華も不知火も蜘蛛のような母も、そして仔猫も、すべてが陽炎の口の中へと吸い込まれていく。


 彼は自分がこの世界唯一の器であり、そして、見向きもされない醜い排泄物であることを理解した。


「おれは……おれは……最高に、気持ち悪い」


 陽炎は、自分自身の内臓を指で愛でるように探りながら、二度と開くはずのない窓の向こうで、真っ黒な太陽が昇るのを感じていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る