ドキュメント25
中学二年で野球部に入り、その夏休みの初日に僕は首を吊りたくなっていた。どうか理由は訊かないでほしい。けれど、僕は云いたい。云いたくないけれど云いたい気持ちが、弟の心を動かしたらしい。
僕の弟は中一で、中一にしてもう童貞を卒業しているらしくて嫉妬が止まらず、あまりの悔しさに涙も止まらない。弟──
「卒業って、あんまり良いもんじゃない」
「はあ?」と、僕は愕然とした。
「卒業は良いもんだろ。あのさあ、なんで僕を煽ってくるわけ? なに、童貞ってやつは害悪なんか?」
「いやいや。別にそういうわけじゃないけど、なんとなく良いから良いって云っただけ」
僕の名前は
「最近の子は早いのねえ……。弟に越される兄なんて、本当に情けなくて涙が出る……」
そう馬鹿にするように云ったのは僕らの母親。
怒りのあまりに僕は「はいはい。そうかもしれんけどね、僕はほぼ毎日白い涙を出してるよ!」と叫んでしまった。
それから母親との関係はぎくしゃくするわけでも距離が置かれたわけでもなく平静で、これといって何事もない。
つまり本心では、僕は死にたくなんてない。でも死にたい気持ちはたぶん心のどこかにあって、それが表に出たり裏に隠れたりしているだけなんだと思う。
ユニフォームを着て夏の景色を一人で楽しんでいると、顧問である小林先生が怒鳴り声を上げたけれど僕は無視。それは当然で、ありふれた日常の一コマでしかない、僕にとっては。
そもそも僕は、金属製バットで先生を殺せっていうんなら歓んでやるけれども、そうじゃないなら股間の小バットをビンビンで振りまくっていたほうがずっと幸せである。
「──ああ幸せだ。青空の下、安らかな心をもって、ただ平穏に生きるというのは……」
「本当にそうかな」
「えッ」
突然の声に、僕は息が詰まって咳をする。二度三度ゴホッてちょっと落ち着いた僕は周囲をくるくる見回すけれど、どこもかしこも静寂を極めた午前十時二十二分にすぎす、人影すらまったくない。
先生はつい数分前、水分補給という名目で近くのパチンコ屋に向かっていった。
僕は再び「ああ幸せだなあ! 幸せなんだ」と呟いてみた。すると「本当にそうかな」とたぶん同じ声が響いた。
「えッえッ? 何なんマジ……」
僕はビビっていた。そんな自分が情けなく、心臓が痛かった。
もしかすると幻聴かもしれない、という思いが頭の中を駆け巡り、少しだけ安堵してわずかばかりの吐き気を催す。
こんなとき、先生がいてくれれば助かるのにと思う。
自分勝手な自分を嫌悪して、僕はボールを宙に放ってバットで思いきり打ち抜いた。
打ったボールはおそらく銃弾よりも音よりも速く空を泳ぎ、熱を帯び始めた空気を切り裂きガラスをぶち壊した。
教室の窓ガラスを。
僕は平然と、割ってしまったことよりもどの教室の窓を割ってしまったのかが気になった。
誰もいないグラウンドで全裸になってマスターベーションしたい衝動を抑えて、僕は走って校舎に飛び込んだ。
夏休みなので誰もおらず、けれど天使か吸血鬼が彷徨いていそうな雰囲気を醸し出しているように僕には思えた。
非童貞なる弟のせいだろう。
僕は壊れてしまったのだ。何者にも治せない永劫の病に罹ってしまった。
下駄箱が並ぶ昇降口を抜け、壁に貼られた台湾か北朝鮮かの姉妹校について書かれた三枚のポスターを抜けて走った。
「廊下は走っちゃ駄目だよ」
「廊下は走っちゃ駄目だよ」
「……!?」
人は、驚愕にすぎると声なんて上げられない。
手を繋いだそっくりの幼女二人が、僕の数メートル前──保健室のドア近くで立ち塞がっている。
僕は恐怖に顎を震わせて云う。
「こ、ここ。ここはね、小学校でも幼稚園でも、ないんだよ……君たち。だからね、帰らなきゃ、帰って……帰ってよ!」
「駄目だよ」
「帰る場所なんてないよ」
「……あるよ。分かんないけど」と僕。
「ないよ」
「ないよ」
二人の声はタイミングこそ少しズレているけれど、同一の声であるように聴こえた。
彼女らは無表情だった、どちらとも。
そして、聖者を喰らう大蛇さえひれ伏してしまいそうな聖性を纏っていた。僕はそう感じて、震えるどころかむしろ、春の息吹みたいな温かみを感じてしまった。
理由もなく僕は二人に導かれた。
彼女らは互いの手を離し、その隙間に僕を割り込ませて三人で手を繋いだ。
体育館の入り口手前で左に折れ、野外プールに繋がるアスファルトの小道の途中にある女子トイレに僕らは入る。
最初はもちろん嫌だった。
「無理だよ……、僕男だもん。見れば分かるよね……?」
正直なところ入りたい気持ちはゼロじゃなかったし、でも入ってしまえば最後、僕は二度と戻れない場所に達してしまうだろうことは安易に想像できた。
「嫌だ嫌だ! 僕はまだ性犯罪者になりたくないよ!」
そう叫んだけれど、幼女たちは顔を見合わせるだけで、何も分かっていない無垢な赤ん坊みたいに思えた。
黒いショートボブは光り輝き、僕と同じくらい美しい顔をしていた。瞳は大きく、そこには宇宙が無限に広がっていた。
聖者に魅入られた愚者は、かつてあった心をすっかり捨て、一旦は空っぽの器となる。
僕はそうなりたくない。だから……いや、もしかしたら僕は……、童貞であり続けることで聖なる存在へと成り上がろうとしているのかもしれないな、と阿呆丸出しの結論を抱いた。
自分でも意味が分からなかったけれど、一度確信めいた考えをもってしまうと、なかなかそこから離れられなかった。
彼女らは僕に何度もこう囁いた。
「身を任せて。衣人くんは何もしなくていいよ。卒業したいって思ってるでしょ?」
「何もしないでいいよ。そこに寝て」
僕には、今に至るまでどっちがどう喋っているのか見分けも聴き分けもつかなかった。
あっけなく紬に追い越された僕はダサいだろうか? あいつは良いもんじゃないと云っていたけれども、それは僕を煽るための真っ赤な嘘で、実際は天にも昇る快楽なのかもしれない。
ちょっと待って! と僕は云った。
声はトイレ中に響き、もし外まで響いていれば誰かが気づくかもしれないと思ったけれど、たぶんそんなことはないだろうと思った。
僕は自信家でありながら、傲慢でありながらも滑稽なほど臆病ですぐに自信をなくす。そんなだから童貞なのよ、と云う母親の幻が聴こえた気がした。
「うるさいッ!」
僕はやんわり押さえられていた身体を起こし、蒸し暑さに汗を垂らしながら「くせーんだよここ!」と大口開けて怒鳴って足を動かす。
けれども、時が止まったようにほとんど前へ進んだ感覚がなく、その場で足踏みでもしてんのかってくらいの虚しさだった。
無意味だよ、とどちらかが云った。「けど暑いんだよ! とりあえずこっから出せよ!」と再び腹の底から大声を出したけれど、彼女らは静かに僕の顔を見上げているだけだった。
何の感慨も浮かんでいなさそうだった。
「なら卒業したくないの?」
「卒業したくないの?」
「……いや……」
違うんだ。未知という恐怖と期待と興奮と熱気にずっぽり包まれて、もう僕はまともな判断は下せないと自分で分かった。
半端じゃない手汗塗れの両手を左右から握られる。片手ずつ握られ、僕は逃げられない、と思う。
そう思うと、逆に安らいできて、心は最後の晩餐を開く雰囲気になりかけていた。
晩餐。
どんなに楽しい時間も苦しい時間も終わりがいつか来る。あるいはまだ始まってもいないのかもしれない。
遠くの空から自身を俯瞰するような、高い城の玉座でふんぞり返ってすべてを見下ろすような。
限りのない高慢が僕に自信を呼び覚まさせる。
ユニフォームのポケットに偶然入れていたアーミーナイフをこっそり取り出した僕は「殺すぞお前らあ!」と叫んで、胸の中心のヴァニタスを刺し貫いた。己自身の。
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