ドキュメント27

 全裸で燃えて悶えていた僕にバスタオルをかけてくれたのは、偶然バス停のそばを通りかかったお姉さんだった。


 話はほんの若干ズレるけど、いつも僕は六人グループで行動している。一人でいるのは怖い。自認ナンバーワンは僕で、ナンバースリーは星野ほしの真人まひとで彼は自他ともに認める阿呆の血筋であり、僕と同じ十六歳である。


 真人は真なる阿呆かつ無神論者で、『アンチクリストの誕生』『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』『若い読者のための数学史』を愛読書としているらしく、気が休まらない真夜中の慰めとしているらしい。


 まあ僕はといえば、夜はもっぱらマスターベーションに耽溺して自己愛に溺れ、たまに朝になっても現世に戻って来れなくなっている。

 そんなときは、小林みどり先生の艶やかな喘ぎ声と怒鳴り声を交互に聴いてお目目をパッチリとさせている。


 僕は先生の声を無許可で中出しするみたいに隠れて録音していた。どうしよう……バレたらどうしよう、だなんてひとつも心配していない。

 僕という人間は失敗を知らない……否、失敗を恐れないのだ。


「──ただ前へ進むのだッ!!」


 お姉さんは笑いを堪えるみたいな顔つきで、「ねえ君。ここは法治国家だよ?」と云った。けど、僕にはその意味が上手く掴めなかった。


 彼女は今まで見た美人さんと並ぶには美しさが足りないとは思ったけど、失礼すぎるねそれは。


「放置国家?」と僕は訊いた。

「うん。法治国家。分からない?」と彼女は問い、僕は「分かるよ」と答えた。実際のところ、そんな細かいことはどうだって良くて、今の僕にできるのは、僕にバスタオルをかけてくれたお礼を云うことだけだった。


 ありがとう、と云おうと口を開いたものの、なかなか言葉が出てこなくて、僕は少しだけ混乱した。


 僕は「お、おかしいよ、お姉さん!」と云う。

 お姉さんは「何が?」と云う。


 相も変わらず立ったり座ったりしているお婆さんは、首を切られたトナカイみたいな澄ました表情で黙っているから、僕は思わずパンチを一発お見舞いしてしまった。


 お婆さんは灰色の地面に顔から突っ込むように倒れ込み、声一つ上げなかったけど、お姉さんは「あっ」と鋭く声を上げて、「君、何してるの!」と叱責するみたいに僕を見た。


 アスファルトから昇り立つ靄は、お婆さんの乳白色の思念が混じったせいで鈍く光っていた。

 僕にはそういう風に見えた。


 僕は泣きそうになりながらも、ペニスは熱を帯びた風に吹かれて勃起を始めている。僕はお姉さんに見えないようにバスタオルに強く包まり、何でもないふうを装った。


「ねえ。どうしてお婆ちゃんを打ったの?」

「わざとじゃないんだ」と僕は云った。因みに、僕の身長は石原慎也と同じか低いくらいである。


 わざとじゃない……わざとじゃない……とぶつぶつ呟きながら、ベンチ横に偶然落ちていた四次元ポケットを拾い、中から文房具屋で買ったハワイっぽい青シャツを取り出す。


 お姉さんも僕の四次元ポケットに手を突っ込み、「あああああ!」と絶叫しながら勢い良く手を引き抜き、その手の中にあったのは小さな男の子を模した人形だった。


「なあに、それ?」

 そう僕は云って、その人形が放つ輝きに片目を閉じた。瞑っていないほうの目で見る彼女の顔は、両目で見ていたときよりもより美しく見えた。


 どうしてだろう? と思いはしたけど、そんなことはいつか、部屋の隅っこで蹲って考えれば良い、と僕は考えて唾を飲んだ。


 そこで強く風が吹いて、落ちていたライターから零れた火の欠片が僕を包んでいたバスタオルに着火して、あっという間に燃え盛り、僕は慌てふためきながらブルーなシャツを着込んで四次元ポケットに腕を入れる。


 パンツを穿かずにパンツを穿いた正常な僕は、一向にバスの来ないバス停から離れていく。お姉さんは僕の三歩後ろを歩く。不意に僕は云う。


「……お姉さん」

「何?」と、彼女は戦争に勝利したノルマン人みたいな声色で首を曲げた。

「その人形、高そうだね」

「高そう? 高級そうって意味?」

「…………」


 僕は意味もなく腹が立ってきて、フランス人の育てたバナナが食べたくなってきて、お腹に手を当ててヴァイオリンを弾くみたいに摩った。


 腹痛と頭痛に苛まれつつも、僕は小さく叫ぶ。


「その人形! 実は! 僕のものなんだ!」

「え、何て? なんて云ったの?」

「その人形、僕にちょうだい! って意味だよ!」


 お姉さんは、そのそこそこ美しい顔を二〇〇一年に死んだ宇宙飛行士みたいに歪めて、駄目だよ、と答えた。


「……アンダーパンツがなければ、人は死ぬ」

「うん」と彼女は笑い、ずっと握っていた小さな男の子の人形を僕に手渡した。


 もくもくとした白雲が漂う空には、晩年の大島渚の歯の黄ばみにも似たカラスの群れが泳いでいた。マジでかったるくてさ、苦しいんだ。


 大きな物語が簡単に終わってしまってもいいのだろうか? 否。平凡な悪がそこにあったように、まあつまり……そういうことだ。


 完璧な絶望と、不完全な匣の底にあったもの。そういう一切を破壊して僕は生き、死ぬ……いやはや、果たして死ぬんだろうか……?



 次の日のこと。その人形は、じっと見つめれば見つめるほどに僕そのものであるような気がしてきて、家族で食卓を囲んで朝食の途中、僕はトイレに行ってくる、と眠そうな演技をして部屋から出た。

 この世界の醜さに、僕はいい加減辟易して、この美しくも醜い僕の肉体と精神を切り離してどこか知らない場所に行きたいと願った。

 ……その人形は、家のトイレの壁に何の飾り気もなく打ちつけられていた、小さく細い釘によって。

 その釘に呪いはない。近所のホームセンターかファミリーマートにでも売っていそうなものにすぎず、僕はいくらか安心したけど、いくらか由来不明の不安が膨らんできたのも感じていた。

 僕は胸に手を当てる。ドクンドクンといつもより速く心臓が鐘を打っているような気がするけどまあ正常の範囲内って感じで、またちょっとだけ心が落ち着いていく。

 可愛い女の子が、この僕のおちんちんをちんまりと握って、優しく愛想よく上下に擦ってくれさえしてくれれば、必ずやあらゆる心配事は破壊されるに決まっているんだけど……。

 馬鹿め、阿呆め! ありえない夢想に時間を無駄遣いしてんじゃねえよ! 僕は自分自身を激しく叱咤、涙目で額に手を当てて嗚咽する。


 しばらく便座に座って「考える人」となった僕は立ち上がってトイレから出る。右手に人形を掴んで。

 リビングに戻ると、父親が「手、洗ったか?」と訊いてきたから「うん」と端的に答えて座る。

 そういえば、と母親が「トイレにさ、変な人形あったでしょ」と云うから僕は無言で頷き、食べかけのアジの南蛮漬けを頬張った。

「うん。おいしい」

「本当か?」

 間髪入れずに口を挟んできたのは父親で、僕はむっとしていないけどむっとした顔を作って反論した。

「マジに決まってんだろ。お前殺すぞ、本気で」

 すると父親は当然大激怒して、意図も意味も分からない訳の分からない暴言か妄言かも不明な言葉か言葉じゃないかも不明な奇声を発し、バネみたいに垂直に飛び跳ねながら十分ほどかけてリビングを出ていった。

「お母さんはね、美味しくないと思うの。だってね、昨日の残り物だもん」

「……」

「冗談だと思って聞いてほしいんだけど、これを美味しいと感じるのは舌がおかしいと思う」

 僕は首をゆったりと振りつつこう云った。

「……冗談だろうと許されないことはあるよ、云うまでもなくね」

「そこまで? でもあんた、お父さんに殺すぞは不味いに決まってるでしょ……」

 あの人短気なんだから、と続けた。

 僕も怒りながら飯をかきこんだ。

 やっぱり、おいしいよ。


 南蛮漬けと味噌汁、そしてご飯。リーズナブルな値段で作れる、至って普通の食事。こういうのがどれほど幸せかっていうのを、クラスメイトの今村いまむらひとしは力説したけど僕は一言も聞いていなかった。

「…………あー。話終わった?」

 僕は耳栓を外した。

 ベシリと叩かれた。きっと彼は、今すぐにでも僕という人間を磔にして竹槍で突き殺してやりたいと息巻いているに違いない。想像して震える。

「クズ」

「はあ?」と僕はとぼけ顔。

「やれやれだよ……。僕はね、まったくもってクズなんかじゃないよ? 誰もが認めるっていうのは難しいけど、大抵の善人に愛されるような人間だよ僕は」と云った。

 そのときから、彼は僕と会話することをめっきりやめてしまったようで、僕が図々しく絡んでいっても無視された。

 そのことを半泣きで彼の妹である有海うみに話すと、有海は何ともいえない表情で「でもしょうがないよー」と云った。


「兄さんは満足に食事も摂れないみたいだから」

「ん〜、へえ。そうなんだ」

 僕は悲しくなった。仁を可哀想な人間だと思ったことはないけど、飯をあまり食えないなんて僕だったら自殺しているところだ。

「……本当に悲しいんだ。本当さ」

 本当さ──本当さ──本当さ──本当さ──と僕の声はエコーとなって教室の外まで響き渡った。

 ちょっ、マジで静かにしてよ、と困った顔をしている有海のスカートを捲り、僕は彼女のお尻に露出したペニスをずりずりと擦りつけた。

 どうしてこんなことをしてるんだろう?

 そう僕は自分で思ったけど、仕方のないことだと割り切り自分を納得させ、てかなんでパンツ穿いてないの? と訊いた。

 彼女は『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』読んだことある? と言葉を零し、その口はどろりと溶けて床へと垂れた。


 ふと気づくと、僕の目の前には見慣れたドアが立ち塞がっていた。はあ……? と傷だらけのドアを呆然として眺めていると、ぜんぶの傷が僕自身がつけたものだと思い出した。

「マジか…………」

 マジか──マジか──マジか──マジか──と僕の美声はエコーとなって肥大した自意識をぐらりと揺らす。

 自意識?

 ああ、僕は……ぼくは……。

 がくがくと両膝を、暴れる被告人みたいに震わせて、僕は両目に手のひらを当てて天を仰いだ。

「──僕は、僕の名前は、名前が……駄目、思い出せない……不味いなあ──」

 ずるずると広い大地に精気を吸われるようにして、次第に足の筋肉がなめらかに萎えていき、折れた聖剣みたいに地へと倒れる。

 土やら小石やらに頬をぴったりくっつけて、僕は自然の素晴らしい匂いに恍惚とする。




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