ドキュメント22
いつも書き出しが分からない。と、わたしはぼんやり考えながら、じりじり焦らすように鈍間な赤色を眺める。
そして自分の爪を見る。
わたしは制服を着ている。実在するどこかの高校の。頭に色々と浮かぶけれど、上手く言葉に変えられなくて嫌な気分。
やがて血塊は三百円くらいで買えそうなハサミに形を変えた。奇妙だった。
わたしの人生は薄っぺらく非立体的であるけれど、ワンコインで買われるほど安いわけではないと思う。自信はちょっとないけれど……。
ともかく変化した。赤黒くグロテスクだったものは、ほぼ百パーセント凡々たるハサミへと変わった。
訳が分からないけれど、目の前にある世界こそがわたしの世界──そしてチャンネルなのだから仕方あるまい。
仕方ないだろうか?
もっと道があったはずなのでは?
なんて自分に問いかけることは無意味。あるものはあるからあるのであり、しかしないものがどうなのかは知らない。全然考えようとも考えるべきだとも思わない。
──ダメダメダメゼッタイ! 僕は愛を捧げるみたいに叫び声を上げて、物語の主導権を握る。ぜんぶ僕のものさ! そうであってほしい……。
──ぜんぶそうなんだよ。そうであるべきなんだよ。
──遅すぎる。そう
僕はガバッと起き上がって、ひどい眩暈にクラクラしつつも走って走って小娘ちゃんから武器を奪い取る。奪取。
そのときにきゅっと軽く手に触れちゃったせいか知らないけど僕は勃って(たぶん半分くらい)、勃っちゃった自分自身に驚いたくらいだった。
いつの間にかトイレに通じる廊下でへこたれていた「僕だったもの」を踏んづけて走る。存在はある。あるから存在なんだ。って、僕はいつも意味の薄い言葉ばかりを繰り返す。
世界に無意味無価値なものは一つとしてないと僕は信じている。そういうふうに存在は存在しているんだから!
これもまたあんまり意味がなくて、涙ぐむ必要もないのに雫を零しそうになって息を止める。
でもまあ勝手にしたら。冷静沈着窮まる僕はけど全身に血を巡らせているはずで、まったく冷たくはない、身体はね? 心はご勝手に。
ぜんぶが解釈にすぎないとまでは思わないけど、当たらずといえども遠からず的な感じ? 僕は僕のキャラクターを覚えていない。けどいい、そっちのほうが楽で楽しく心地良いから。
ガヤガヤと騒がしいA子と偉ぶっている幼女を尻目に、僕はペニスで障子を突き破るみたいに鋭いけど強靭にはほど遠い刃物を突き立てる。
そんでザクザクジョキジョキやる。
その音は産まれてから数時間経った仔馬の嘶きとは少しも似ておらず、なんだか残念な気持ちで作業を続けたけど、それも次第に飽きてくる。
薄汚れた天井から垂れ下がる蜘蛛の糸がぷらんぷらんと僕を誘うように揺れている。例の女子大生放火殺人事件の犯人みたいな気分で、僕はA夫人のでっぷり肥ったお腹を衣服ごと裂いていく。
A子は「ソファに血が! ぁあ、ぁあ……許されない……許されない……!」と、聾唖の老人の禿げ上がった額を杖で殴るみたいな音を響かせ怒りに震えている。
響きと怒り。
無事に犯行を終えた僕は、滝のような汗は流れていないけどボワリと熱い身体を手で押さえてハアハア息を吸う。
まずどんな事件であれ、客観的な手がかりを一つずつ拾っていって解決に近づいていくのがセオリーではあるけど、僕にそれはできない。
僕は犯罪者ではない。逆に成仏した仏さまみたいな感覚で両手を羽のように広げて唄った。
──許されない……許されない! A子は顔を赤くして、たぶんだけど、僕のその麗しき美声に感動しちゃったんだと思う。
──分かる分かる。うん、うん。と僕は頷く。
頷きながら、気を失っているように見える夫人のぐったりソファに凭れる肉を少し離れて観察してみる。僕の手は血で汚れている。嫌だなあ、嫌だ嫌だ。特別に潔癖というわけじゃないけど、嫌なものは嫌なんだよ。
僕は光を失ったハサミをキッチンに置いてから、有海とA子にさよならを告げる。
僕がこうして語っている最中、有海はどこで何をしていたのか知ったことじゃないけど、海底に沈む神殿と同じように彼女は寂しく静かにしていたんだろう。
やれやれとは思わない。そういうタイプの人たちには、重っ苦しい絶望に飲み込まれて死んでほしいと願ってしまう。
僕はきっと、あと九十五年くらい生きれば聖人になれるだろうと思う、信じている。長く高い空洞ばかりの階段を常に登り続けているみたいな衝動は、必ず僕を聖者へと引き上げる。
というふうなことを彼女に云うと、彼女はそうかもしれない、と答えてくれたから、僕はあまりの衝撃にソース塗れの皿で彼女の幼く未発達な頭を殴りつけてしまった。
そして後悔。僕は云う。
──ごめんよ、ごめんよ! わざとじゃないんだ決してね! 優美な絵画のファンタジアが首を伸ばした観音像を直撃したんだ!
必死の謝罪が通じたのか、有海は良いんだ、と云って僕を許した。
許された僕はまた一歩、聖人へと近づいた。
探していた光はどこにでもあるのだから。少年と少女が出逢えば始まる。愛とか恋とかを超越した先の未来の果ての果て。
A夫人の腹にぽっかりと空いた穴の奥、その奥の奥にはそれがある。僕が今まで誰にも見せずに書いてきたドキュメントたちが顔を覗かせた。
さっきのA子みたいに僕は顔を真っ赤にする。自分で分かる、その赤さと明るさが。でも耳は凍っているみたいに熱をもっていない。
耳にはたくさんの音楽が混淆を続けている。生命も悪意も恥も償いも、すべて混ざって混ざって一つの結晶となる。僕は真実を求める老賢者のようにリアリティから大きく外れ、その紙の束をグイッと引っ張る。人は本質的に人の形を喪うことはできないと知っている。
そう信じているから、夫人の穏やかな微笑み浮かぶその顔面を剥ぎ取ろうと決める。……、同じく平穏無事な表情をしている幼女はそれを簡単に許した。僕はそう判断した。
ごめんよ、と云って、ヒラヒラしたよく分からない衣を引っ張って彼女を夫人の腹の中へ投げ入れる。尊い旋律と甘やかな戦慄が僕を貫く。
無価値な笑い声が世界に響き渡る。僕だけが、僕という存在だけが今この瞬間……尊い価値をもっている。ディープな確信。革新的な天啓に導かれるまま、僕は生卵から生成された仔猫のフンニャリした手指の柔らかい爪を一本ずつ使って裂いた腹を綴じていく。パチパチパチパチン。
──有元利夫がかつて云ったように、芸術には象徴性がなくてはならない。
僕がそう云うと、くぐもった笑い声が歪に閉じられた膨らみの内側から漏れてきた。
──悪くない。だが、人は待つことしかできないだろう?
──さあ。
──いつまでも……、人が奇跡だと思う出来事にはいくつもの鍵が結びつけられている。
──鍵って何よ?
──わたしにも、分からない。
その後もいくらか会話を交わした。僕は女の子とまともに話せないから、こうして肉の壁を介してでしか顔を赤らめずに話せない。
僕はさよならを云った。
有海はさようなら、と云ったんだと思う。
余った猫の爪でエッフェル塔の輪郭を描いて遊んだ後、ファシズムとフェミニズムの区別がつかない発展途上国の子供みたいに僕は無邪気にペリペリとA夫人の顔の皮を剥いでいく。
剥ぎ終わって、寝室か茶室か知らないけどどこかで休憩していたらしいA子がちょうど良く現れる。
──どこ行ってた? 僕は訊ねた。それに対して
彼女はこう云った。
──……あー……。云わない。うん、云わない。
──なんでよ? ワーン! ワーン! ワーン! と僕は泣き叫んだ。
まだ温かい鼻水やら涎やらが数分のうちにすべての部屋をドバッと満たし、僕は意識を失いそうになって手足の先っぽまで力を込めたけど、そんな努力虚しく暗黒に転げ落ちていった。
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