ドキュメント21

 今日12月30日は、山口市のどこかにある生目神社を訪れた。

 一言で云えば脆いしボロい。ありとあらゆる隙間から雀の声が響き、それらは俺の心を少しだけ和ませる。


 ひび割れて傷だらけであったって、別にそれが嫌なわけではない。光はどこにだってある。どこからでも差し込んでくる。

 そういうのが嫌だって人もいるだろうけれど、幸運なことに俺はそうじゃない。


 そう。幸運だ。愛が祈りであるみたいに、幸運の星はいつだってどこだって俺を見ている。見てくださっているのだ……なんて表現すると変にスピリチュアルな感がするけれども、そんなの勝手にすればいい。

 とにかく俺は、幸せでたまらないから、弟が死んだって苦しくない。


 冗談だよ。


 たったぼっちでニヤついている俺は不審者だ。そうに決まっているけれど、全然大丈夫。

 どうにか心のざわつきを押さえつけた俺は、口をしばらく噤むことを決意して、一心不乱に走り始めた。


 走り続けた。

 走り続けた。

 走り続けた。その途中、一口ごとに約23回うどんを窓際で啜るお客を見たけれど、その様子はまさに平和そのものといった感じで、逆に俺はそれが気に入らない気がしている。


 けれど気に入っている。俺のリズム感は億千万の価値もないけれど、己自身を満足させられればそれでいい。

 頻りに首を振りながら歩く。走るのはやめた。


 俺は大学生だ。初めて髪を染めてから、女の子と話せなくなった。「君を離したくないんだ」と小声で呟いてみる。

 熱い。頬が熱くて、ただヒョコヒョコ歩いているだけなのに、動悸が止まらない。


 ドキドキ鳴る心臓のとこをギュッと押さえて呻いていると、やたらとデカい三十代くらいの男に声をかけられた。

 こんにちは、と男は云った。


 俺なんだろうけれど、ひとまず無視をしてみると、男は突然大声を出して右肩をガッと掴んできてびっくりする。

 わあああっ! と俺は叫ぶ。


──お前の名を聞かせろ! 男は、路上で喫煙しているフリをしていた俺を咎めるような目つきで睨んだ。


──お前の名を聞かせろ! 聞かせろよ。

──い、嫌だ。なんでだよ……。

──お前の名を聞かせろ! 聞かせろよ。

──嫌や! と俺は涙目で両手を振って逃げ出そうとする。


 けれども、走りすぎた俺はあまりにも疲れすぎていたので、両足がガクガクとありえないほど痙攣して呼吸もままならなかった。

 俺の目に映る景色は鮮やかな色彩が溢れ出し、まるで一昨日見た淫らな夢の続きなんじゃないかと思えたくらいだった。


 情けなく転げた俺を間近で見下ろした男は、こう云った。俺にも予想できた。


──お前の名を聞かせろ! 何度も云わせるなよ? お前を殺してやってもいいんだぞ?

──……なんだよお前、そんなに喋れたんかよ、と俺は少しボーッとして呼吸が楽になる。

──そうだよ。お前の名は?


 俺は迷う。とある探偵によれば、すべての出来事には重要か重要じゃないかはともかく意味があるらしいので、俺は正直に教えることにした。


──お、俺は……古義人こぎとだよ。ついでに云うとな、俺の父親は2002年のピサの斜塔カタツムリ事件に巻き込まれて死んだんだ。おい! ふざけんなよお前! 俺はな、不幸なんだよ!


 泣き笑いの顔でそう云った。すると、男は処女を散らしたばかりの少女のように傷ついた表情になった。

 本当に気持ち悪かった。


──そうか……。お前は不幸なのか……。

──そうそうそう不幸不幸不幸不幸不幸不幸不幸不幸不幸不幸不幸不幸不幸なんだ! はははっ!


 だがしかし、俺は正常だ。東京からソウルまでの距離を正確に目測できるくらいには正常であると自負している。


──ん? ちょっと待てよ。

──…………。男は静かな笑みを浮かべている、ように見えた。俺は言葉を続ける。

──ここはどこだ? おい、誰でもいいから俺の居場所を見つけてくれ! 俺を見つけてくれ!

──なあ、古義人。


 男の小さな色の薄い瞳は、深く被ったベレー帽から見え隠れし、俺を見つめているのか時空の影を見つめているのか判断つかない。

 そこに、イース人でもいるのか? そう俺は訊いた。


──……ん、イース人だって?

──つーかお前、背が高えな。俺より高えの許せねえよ。


 俺は理由なく苛立った。目をわずかにスライドさせると、そこにはごく小さなアパートが建っている。

 俺はそれに共感した。


 いや違う。違う……俺は、そうだ。

 間違いなくそうだ。

 俺は限りない神からの愛情に抱擁されている。

 そんな確信が爆裂する。


──おお、神よ!

 叫んだ途端に、俺は本当の俺と一体化する。

 馬鹿馬鹿しいなあ! 人間の本性は、愛と友情そのものだ……。


 こんな独白を、一体誰が真面目に聴いてくれるんだろう?

 ねえ聞いてる? と訊ねる。男はゆっくりと俺の顔を見て、ここがどこかは知らないが、ついてくるか? とそよ風に目を細めて云った。


 いや違う。違う……。俺は今、自分の精神が自分の外側に浮遊していき、知っているはずの場所でさえ知らない場所だと感じてしまう状態にあるのかもしれない。


 そよそよと吹く風は俺の髪をかすかに揺らす。そろそろ切りたいと思う。

 いそいそと左ポケットを探ると、苦悶じみた声がそこから聴こえた。


──助けて、ぁ……、ぁ、あ……。


 俺はまた驚く。苦しそうな声に、感受性の高めな俺も苦しさを感じ始めてしまう。敏感な肌をペティナイフで削られているようなチクチクした違和感。


──今、何か聴こえたな……? と男は云って、作業服にもスーツにも見える服の胸ポケットからハンカチを取り出した。

 そして、ガラスを磨くように首元を拭った。


──緊張してんのか? 落ち着けって。

──違う。これは持病だ。

──じ、持病……?

 俺は唇をペロリと舐める。甘い。


 蕩けそうな甘みが、俺の背中の裏側を撫でるようにピリピリと痺れさせた。1歳にも満たない子供の無邪気さは天地を超えるように、俺は当たり前みたいに勃起していた。


 どうやら勃起してるみたいだ、と云うと、男はベレー帽を被り直してこう答えた。


──……なるほどな。

──何がなるほどだよ。俺は今困ってんだよ!

 また無為に叫んだ。

 俺はもう成人しているというのに、いつまで経っても幼いままなんだ。




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