ドキュメント20
『薔薇の刺戟で
黒ん坊ボクサーは頭をイカれて興奮しだす
黒ん坊はみんなジヤズマンのよう
黒ん坊はみんな
黒ん坊の髪は太陽で灼けた
黒ん坊は海のフオヌ
< >
波の泡より青白い』
ニンフは水のりぼんです
彼女はホテルの角砂糖のなか
に逃げこみます[変奏]
「やれやれ」と口に出すと、僕の家に住み着いている仔猫も「やれやれ」と鳴いた。喋るピンボールマシンみたいな声をしていた。つまり、眼球を取り外せる九十九十九と同じということである。
仔猫が人間みたいに喋ったことに僕は驚きを隠せず、手にしていた箸を取り落としてしまい、それを拾おうと屈んだ瞬間に背骨の折れる音がして、受け身も取れずに床に倒れ込んだ。
僕はそんなに不快な気分ではなかったし、寧ろ爽快な気さえしてきたように思ったけど、それでもやっぱり痛かった。ものすごく痛いわけじゃないけど、子どもの頃の突き指くらいには痛んだ。
痛いものは痛いから、海馬の底らへんから溢れてきた涙を止めることができずに泣き始めると、仔猫のサッちゃんは「痛そう……」と鳴いた。
「痛いよ」と僕が答えると、サッちゃんは人を小馬鹿にするような笑みを浮かべて、「かわいそうだね」と云うから「本当にね」と僕は呻くように云った。
それからサッちゃんは人の形に変化して、僕に近寄り僕の頭を撫でた。僕の頭は脳の大きさにふさわしく小さいから、体躯の小さなサッちゃんでも撫でるのは簡単だろうと思う。
僕は「スパゲティとパスタの違い、って知ってる?」とサッちゃんに訊くと、彼女は首を振って僕の舌を噛んでから、「知らない」と答えた。
「そうですか」と僕は云って、「僕も知らないんだ」と云ったら、彼女は嬉しそうに「同じだね」と云った。
僕はサッちゃんとベッドで交わった後、服を着ないまま外へ向かい、悲鳴のあった方角へ歩いた。
僕は十分に射精していたし、そのおかげで体調も万全で万事快調としか云いようがない感じだった。
愉快な気分で歩いていると、いつもバス停で座ったり立ったりを繰り返しているお婆さんに出会い、僕は「こんにちは!」と挨拶をする。
お婆さんは耳が遠いのか、ほとんど挨拶を返してくれないけど、別に不快ではなかった。三日間以上射精できていなかったら、僕はお婆さんを撲殺していたかもしれない。
その可能性は否定できないな、と僕は思った。
お婆さんは僕がそばに立っている間も立ったり座ったりを繰り返していたけど、しばらくして、ようやく僕の存在に気がついたのか、驚いたような表情で「こんばんはあ!」と元気に叫んだ。
僕も吃驚して「こんばんはあ!!」と元気に挨拶を返すと、彼女は不快そうに眉を顰めて、「あんたね、少々うるさいよ! お黙り!」と叫んでベンチに座り込む。
僕は吐いた息を吸い込んで全身の血流に乗せて巡らせた後、その巡り巡った息をまた吐き出して心を整えた。そうしなければ、たぶん彼女を撲殺していたに違いないからだ。
僕は何か武器を使って人を傷つけるよりも、生まれ持ったこの腕で殴り殺すほうが好きだった。とはいえ、進んで他人を害しようという気持ちは微塵もない。今のところは。
「お婆さん! 今日は良い天気ですね!!」
そう耳元で叫ぶように云うと、彼女はポケットに入れていた安物のライターで僕のシャツに火をつけた。慌てて後退ると、彼女は「ナマケモノは毎日十八時間眠る。そういうことだよ」と云って再び立ち上がったり座り込んだりを繰り返し始めた。
「やれやれ……」と僕は焦げ臭さに鼻を摘みながら云って、お婆さんの隣に座って足を組んだ。
そういえば、僕は全裸だった。あれ? そうであったなら、「僕のシャツ」という描写はおかしいのではないか? と思いながらも気にしないことに決めた。
生きるという猛毒なんだよな。
そのダストをここで食い止めるのは難しい。
ところで僕のちんちんはどこだろう?
「ここだよ」とお婆さんは僕の下半身のちんちんが生えている場所をさする。けど、「ありゃあ。どうやらないようだねえ……」としみじみ呟き目を閉じた。
僕はそれから魂を雑巾絞りされるみたいなねじれに悩まされることとなる。つまり僕は速攻で病院に行ってしかるべき検査を受けて帰宅した。
「やれやれ……」と僕は泣きながら云う。
「どうしたの?」とサッちゃんは云った。
「あのね。サッちゃん……」
僕の涙の価値は三千ポンドであり、マリアナ海溝の深みすら及ばぬ価値である。でも僕の勝ちであることは間違いないし、僕はまったく知的な遅れはないはずだ。
「あのね。サッちゃん」
「うん」
「あのね……」
「うん」
「僕ね……」
「うん。ねえ」
「ごめんね、早く云うね」
「うん。早くして」
もしかしてサッちゃんは僕にもう愛想を尽かして出ていきたいとでも思っているのだろうか?
僕は震える。ブラッド・クルーエル。アメリカには三千人の俳優がいて、そこに女優も含まれていることからジェンダー論は盛んである。
「ねえ。早くして。私、おトイレにお行きたいのだわよ」
「やれやれ。変な日本語じゃないか」
僕は呆れる。知恵遅れなのはサッちゃんのほうじゃないか! とでも叫んでみようかと少しだけ逡巡して、僕は「サッちゃん。ちんちんがなくなっちゃったんだ……」と囁いた。
サッちゃんびっくり。産まれたときは紫色だった髪は色が抜けて白髪になってしまってるサッちゃん。きっと失恋したんだね……とか虚しい妄想を繰り広げてるうち僕は上手く言葉が出なくなってまた精神病院に緊急入院となる。
シャンシャン♪ うほお〜トナカイさ〜ん、でござる丸ちんこ!!
重く苦しい鎖に繋がれてオナニーさえできない状況に僕は辟易する。オナニー。お前は今まで何回オナニーをしてきた?
僕は看護婦に訊いた。これはセクハラじゃないんだけど……と前置きして。
「私ですか?」
そう云って彼女はプロペラになった。しばらくプロペラだった彼女は人間的意識を取り戻し答えた。
「二十七回です」
「二十四五回って少なくない?」
「いえ、二十七回です。耳?」
耳? 僕は自分の耳を触り、彼女の耳に触れようとしたところで「駄目ですよ。駄目です」と睨まれる。
「あう」あうだうだう。僕はちんこの精霊になりたいと今だけは思った。
その後、彼女と入れ違いに入ってきたのは例のお婆さんで、膝はゲートを開けるサバイバーみたいにプルプル震えてたし、僕は内臓を全部売り払った弟の身体と重なって見えた。
「こんにちは」とお婆さんは穏やかに挨拶。
僕はびっくりしてベッドの上に立ち上がって政治家になるための五箇条を朗々と朗読しそうになって困る。
「あら。ごめんなさいねえ。ほんまにかわいそうやわ。知恵遅れなんでしょう?」
僕は呆然となって、気がつくと僕はお婆さんのマッチ棒と鉛筆の中間くらいの小枝みたいなヨレヨレボデーをボコボコに殴り飛ばしていた。
それから僕は花畑で摘んだオレンジジュースを飲み干した、一気に。
見上げると、お婆さんの霊魂がふわりと空を舞い、眠気に苛まれる女狐のように微笑み、すっと消えていった。
つまり僕は……お婆さんを殺してしまったのだろうか?
僕は白く無駄に清潔なシーツを汚すために嘔吐する。改めて自分のボデーを見る。まじまじと見ずとも分かる、細い身体が、春の終わりを待つ萎れかけた花の茎のように細い身体が、僕を現実に引き戻す。
僕の吐瀉物を適切あるいは不適切に処理してくれた看護師は、僕の肉の上に被さった毛布をさっと剥ぎ取る。
「法的にあかんのでは?」と云うけど、彼女は意にも介さず立ち去った。音さえしない。音もなく解ける糸を幻視し、その糸はさらなる深奥に在する現実と僕とを繋ぐ希少な道であると確信する。
手をゆっくりと伸ばす。そういえば、僕の吐瀉物には処女雪のような欠片がパラパラと辺りに散っていた。雪のように白い腕を持つ体育教師が僕を殴る。鼻血をダラダラと流す。色々と思い出しては現実を侵食し、侵食される程度の現実なんていらない、とすら思えてくる不思議。
「最近は、どうも暑く……ええ、うむ。やれませんなあ……」
誰の声だったろう? 男子生徒は考える。豊かに実ったオレンジ色の髪の中に指を挿し込み、とぐろを巻く竜巻のように掻き乱す。膣か筒に燃える火を押し込む様にも似ていた。
男子生徒は少しの間、黙り込んだ。そののち、ふっとバースデーケーキに刺さるオレンジを消すように息を吐き、呟くように云う。
「……ええ。とても……うん。なんだかやけに、やたらに暑いですね」
「ねえ? でしょう。私の頭、ほら!」
その誰かは油でうねる禿頭を指差し、テカテカと無駄な輝きに男子生徒は目を細める。
彼──ロペラは顎に親指の腹をぐりと当て、禿げた男を観察する。最近どうも暑い? 僕はそう感じているだろうか? ロペラは頭を振り、ちょうど三本毛が抜ける。
一本目は、高架橋を抜けた先に立つ少年の見る夢を再現する。
誰もが一度は考える。運命を考える。運命の存在……実在を確かに五感のどこかで捉え、手指を閃かせて掴み取ろうとするけれど、するりと捕らえるたびにすり抜けてゆく。
「運命はあるが、決して捕まらない」
心地よい女の声に、少年は閉じかけていた両目を葉が地面に辿り着くほどの間をもって開く。
彼──ケラクは尋ねる。
「決して捕まらないって?」
声は聖女の小指ほどの煙草の火に飲み込まれ、女の耳(耳があればの話だが)には届かない。血流がマイナスに転じ、彼は血を吐く。ロペラの嘔吐とそれはよく似ていた。
父親は慌てず、息子の穴だらけの眼球を手に捕らえ、くるりと回す。その行動にこれといった意味などなく、なんとなくの行動であったが、父は堪えきれない痛みと重みを感じ蹲る。
「ケラク……」
風が吹き、夏の始まりを告げる密やかな結晶のような爽やかな風味を嗅ぎ、親の心もここまで、ここで切れてしまうのだ、と絶対感を得る。
どれほど親密であれ、裏切りは愛すべき親でさえ幻滅させる。しかし幻滅は悪だろうか? 唇に張りついた血を拭いながら、ケラクは考える。
「どうしておれは血を吐いた?」
声に出して考える。死にさらに近づくと分かってはいるが、いずれ死は訪れるのだから、走ってくればいい、歩くことなく……と閉じようとする瞳を無理に開いたまま、花の終わりを名残惜しんだ彼は、「違う」と断じる。
これは救いなんだ。救済なんだ、おれの。
だけれど、おれはそれを違うと捨てる。エモーションが無為にシェイクされちまっただけさ。
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