ドキュメント05

 満足感の余韻は、冷えきったアジフライの衣が吸った油のように、じっとりと部屋の隅々に沈着していく。ぬるい空気。


 有海うみは、空虚に開かれたままのカーテンから差し込む月光を指先でなぞり、それからふいに、解体された少年の名残へと歩み寄った。


──みどりくん、だったね。


 彼女の声は、調律の狂ったピアノのように美しく、そして空っぽだった。まるで血だまりの浴槽に水銀を混ぜ込んだような。


 バラバラになった少年の肉体は、今やただの赤黒い幾何学模様にすぎない。

 しかし、その断面からは依然として、この世のものとは思えないほど甘ったるいマーマレードの香りが立ち昇っている。


 その匂いは、A夫人(中年の女性。彼女は体重を気にしていないフリをしている)の胎から漏れ出した予感と共鳴するように、リビングの気圧をじわじわと高めていた。


──ねえ、お母さん。


 トイレに篭もっていたはずのA子が、音もなく戻ってくる。

 彼女の手には、いつの間にか日本刀ではなく、使い古された糸通しが握られていた。


──あいつ、まだ生きてるよ。バラバラのくせに、心臓だけが電子レンジの中で回ってるみたいな音がする。


 夫人は、自身の腹部にそっと手を当てたまま、窓の外を見た。その膨らみは爆弾のよう。


──それはきっと、世界の脈動です。あの人自身が生きているのではなく、彼を構成していた概念自体が……私の胎内に引っ越しを済ませただけのことです。


──……引っ越し? 敷金とか礼金とか、そういうのは? と、いかにも知能の低そうな疑問をA子は零した。


──すべては、あの人が流さなかった精液で精算されました。


 作者である私は机上のペティナイフを回しながら、この破綻した家計簿を眺める。

 家計簿? 私は笑う。


 物語の整合性は、すでにテリアの鳴き声とともに夜の闇へと霧散した。私は指を二度鳴らす。

 すると、部屋の銀テーブルがゆっくりと回転し始めて、載ったアジフライが黄金鳥となって羽ばたき、天井に吸い込まれていった。

 重力は今やオプションにすぎない。

 訳が分からずとも、そういうことなのだ。


──チャールズ氏、出番だ。


 有海が闇の奥に向かって、まるで古い友人を呼ぶように囁いた。

 その直後、壁のシミが立体化し、一人の紳士が姿を現す。紳士は焦げたルービックキューブと化した命の粒を一つずつ丁寧に拾い上げた。


 そして、熟練の手つきで息をしていない少年を組み立て直し始めた。ただし、元通りではない。

 頭の位置に心臓が、腕の代わりに無数の舌が、言葉の代わりに高宮たかみや家が経営する百貨店のBGMが微かに流れる、異形のオブジェとして。


──完成だ。チャールズ氏は満足げに頷いた。

──これで彼は、二度と誰かに飛びかかることはない。ただ、永遠に私の愛を代読する機械になるだろう……。


 A夫人は、その異形を慈しむような目で見つめた。それからゆっくりと自分の喉元に指を添えた。彼女の皮膚は、すでにプラスチックのような光沢を帯び始めている。


──お腹が、空きましたね。


 夫人がそう云うと、部屋中のカーテンが一斉に閉じられ、完全な暗転が訪れた。


 闇の中で、誰かが咀嚼する音が響く。それはアジフライの砕ける音か、あるいは少年の再構築された夢が奏でる音楽か。


 私は最後の一行を書き込み、万年筆を折った。インクが私の薬指を汚した。それは血よりもずっとどす黒く、温かい。

 つまり、夢は終わらないのだ。




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