ドキュメント06

 飼っていた犬が死んだ日から、毎晩僕の枕元でジャンヌ・ダルクみたいな中国人が般若心経を唱えている。えぐい、と僕は思ったけど、思っただけで特に何も云わなかったから、彼は今晩も現れるんだろうと思っている。

 ところで、君たちは夢を抱いているだろうか? 僕は抱いていない。祈るべき瞬間はいくつもあったけど、そのときはなぜか言葉が全然出なかった。

 夢をもて、と誰も云うけども。あるいは誰も思っちゃいないのかもしれないけど、叶ったからこそ夢を抱くべきだと主張する人たちだっているだろうけど、でも僕は僕がどう感じているのか少しだって分からないまま。

 夢の中で君たちに会えるのなら、僕はずっと眠りについたまま永遠を過ごしたって構わない。

 ジャンヌ・ダルクみたいな彼は云う。

「人はどうして、夢を見るのだろう」

 僕は頭を悩ませる。さっと「分からない」と締めてしまうのも味気なくて、これは夢なんだから全部好き勝手にやればいいとも思うし、で、僕は訊ねてみる。

「あなたは中国人ですか?」

「…………違う」

 そのわずかな沈黙は僕の頬を少しだけ濡らし、訳も分からないまま目を覚ました僕は、今日も起床できたことに感謝を捧げる。感謝?

 なぜだろう。どこのどいつにそれを捧げればいいのか分からず、僕の視線は宙を彷徨いどこにも着地しなかった。

 昨日書いた日記は途中で途切れ、途切れ途切れの言葉ばかりが集まった自由帳の落書きみたいだと思えて仕方ないし、それゆえ僕は眠るのが怖くなる。

 その日は目蓋を下ろすのも怖くて、でもずっと下ろさないのは不可能だったから結局堪え切れず下ろしちゃうしで散々で、だから絶望した、というわけでもなく平坦かつ平穏な日で、ふいに吹いていった風の背中を追いかけるのも吝かでなく、なんとなく幸福な日とも云えた。

 答えのない日々が繰り返され、彼はそれこそが絶望なのだと云った、ように思えた。

「そうかな。僕は、分からない」

 僕は、彼が不満足な心を隠しているふうに思った。なんとなくそうだった。そういうふうに見えたから、そう思ったまで。般若心経を唱え続ける中国人の声は透明感に溢れていたり溢れていなかったりでバラバラで、眠るたびに世界は新しく作り替えられているような気がして、僕の唇は変色して後戻りできない場所まで行ってしまったような気分に落ちていく。

 うむ。知らない。知らない。僕あるいは彼の心に棲む盗人が、よからぬ予感に衝き動かされているのが手に取るように分かった。一つだけ、たった一つだけでも理解に至れたのなら、きっと幸福に違いないんだろうね。




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