ドキュメント19
それなりに深い傷口から滴る血液に、
まるで吸血鬼のようですね、とA夫人は冷静に云った。ある種の冷徹さを纏った声音に、少年はびくりと大袈裟に跳ねて我に返るが時既に遅く、べろんべろんと舐めたせいでA夫人の垢一つない臍は唾液に塗れ、彼が謝罪しようと意識した瞬間にA子は母親から引き抜いた日本刀で彼の肉体を解体していた。
作者である私にも、どのような方法を用いて刻んだのか皆目見当つかず、戸惑いは急加速する。
私は指を鳴らし、ペティナイフを回収する。折り重なった時空の中で私は日本刀を観察する。
すべては私の自由である。
すべては私によって約束されている。
焦げたルービックキューブのようにバラバラになった彼は喋れなかった。それも当然である。
人間は、非常に緻密な奇跡論に従い完成されているために、出鱈目にその肉を破壊されてしまっては元には通常戻らない。
返り血の海から顔を出したA子は云う。
──美味しいアジフライ、もうないの?
──さあ。ないのか、あるのか、私は知りませんよ。と、A夫人は娘に慈愛を与えた。
──それもそうね、と答えた。
──なら……、焼肉でもしよっか。A子は冗談っぽく本音を云った。
しかしA夫人、深刻な状態に陥っていた。
──良いですけれど、ひとつ、いいですか。夫人は人差し指を立てた。天を指した。
彼女だけが光に照らされている。それが、A子にはなぜだか不満だった。しかし、理由はないがあえて黙っていた。
闇に溶けるように存在感を薄めていく少年の肉体は、何者にも注意を向けられはしなかった。緑には悲しかった、どうしようもなく。
限りない敗北感に鳥肌が立ち、呼吸も辛いと思ったがそれは精神的なものとは隔絶した場所に原因があった。云うまでもないが。
彼にとってガワはもちろん最重要といっていいくらいには重要であるが、だからといって絶対的ではない。少なくとも彼はそう信じている。
A子は内心渋々でこくりと頷いて、どうぞと云った。夫人は有り難そうに前歯の裏に舌をぴったりとつける。
──近いうちに、どうやら私は死ぬようです。
そう云った途端に、蠢く無数の腕たちは何らかの感情を表現するために闇を切り裂いた。
引かれたカーテンはひとりでに開かれ、外の匂いと景色が彼女らの五感を刺激し始める。A子の感じる世界は上下左右が曖昧な状態にあり、まるで四方八方からサーベルタイガーやらテナガザルやらが襲いかかってくるような夢幻に惑わされた。
云い知れぬ恐怖じみた不安に、日本刀を握った彼女はそれはもうめちゃくちゃに振り回し、ほとんど奇跡的にA夫人は無傷で済んだが、その代わりにトイレを除くあらゆる場所が荒れに荒らされた。時間帯は不明だが、テリアらしき鳴き声が外で響いた。
──あいつのせいよ! テンションが徐々に戻ってきたA子は叫んだ。あるいは変質しかけているのかもしれない。
──お母さんも、早いうちにあいつの精液を洗い流したほうがいいよ! ぁあマジで!!
髪を振り乱し、わたしは壊れちゃったのかな? と自問するが、当然のように答えは出なかった。
──……その必要はありませんよ。
──何でよ!? ねえ……。
呆れたように視線を外に向け、夫人は微妙な微笑みを浮かべて口を開く。A子はその表情に背筋をぞくぞくとさせる。
甘ったるいシフォンケーキの香り。
──残念ながら、あの人は射精なんてしていませんから。
──っ、残念ながら!? 再び叫ぶ。
彼女のテンションはどちらかといえば異様であったが、母親には何の感慨も浮かべられなかった。緑の口からは涎がだらだらと流れている。
──したんでしょ? ねえ、わたしはこの目で見たのよ!
そんな言葉に対し、出血量がかなり増えてきた夫人は汗一つかかずに対応する。
──きっと幻覚です。
──嘘よ!
──嘘か真かは置いておきましょう。……私としては、あの人は一度たりとも射精していないとしか云いようがないのです。
──みんな馬鹿ばっかり。A子は目に映るすべてがサイケデリックでプラスティックに侵されたように見えた。
そう思うしか、彼女が救われる道は存在しないのかもしれないが、それは救いと呼べるほどの美味を備えているだろうか。
──そうかもしれないですけれど、そうではないかもしれませんよ。
──出してるに決まってる……。
──どうして、それほど頑ななんです? けれども私、この胎に何かが宿っているような気がしてならないのです。と、夫人は云った。
──ばかばかしい。それはね、肥ってるからよ。
彼女は疲れた、と云い、わたしもお腹が痛くなってきたから、と続けた。夫人は無言で見送る。
──いいんです。
彼女が呟くと、平和を祈るように両手を合わせていた腕たちは暗闇の最奥に帰っていく。
──チャールズ氏……。ありがとうございました……本心からですよ?
──分かっている。
有海は敬虔なる盲人そっくりの表情で微笑を浮かべた。どこから現れたのか、どういった方法を用いて物語を繋げたのか、私は知っているが同時に知らない。
──キューバの革命家が語るように、戦争の正当性を高めるためには……さらに多くの戦争に身を投げるしかなかった。そして……ありったけの愛情をもって、きみを抱擁するほかなかった。
対し、A夫人は何も云わなかった。
有海は祈るつもりもないのに、祈る。
──震える声でも、振りだした雨はいつか止むように。人は願うほかないのだから。
A夫人は何も云わなかった。
ほどよく明るく、彼女はほんの少し、理由のない満足感を得ていた。
その後夫人は、黒い蛇に唆されてズレた選択をし続けた蛮族のようにはならぬよう、慎重かつ大胆に立ち上がった。
──大丈夫? 有海は云った。彼女の抱いた猫は小さく、おそらくA子は嫌がるだろうと夫人は思った。
──ああ、そういえば……。と云ったところで、静かに抱かれていた猫が飛び降り溶けた。
その後、夫人は重い足取りでキッチンへ向かい、百貨店で購入した食器棚からボウルを出してそこに凍りつきそうなほど冷えた生卵を割り入れ混ぜた。
──カチャカチャカッチャ♪ 朝から晩まで カチャカチャカッチャ♪ あら太陽さんや わたしのミラクル花盛り♪ ドゥビドゥバ ドゥビドゥバ 口ずさもうかね…………。
かちゃかちゃと割り箸で卵を溶かしている途中、戦時中の罪人のような表情で、わたしは両目を涙が溢れるまで擦りながら戻る。「おえっ」とついでに溜まりに溜まった唾を吐き出し歌い終えると、お母さんは珍しく料理に手を染めていた。
テーブルには、わたしの作ったらしいアジフライの破片が散らばっている。作者によれば、わたしは情緒不安定な人間らしく、そしてとびきりの美少女らしい。
嬉しいけれど、逆説的に嬉しくないという気持ちがあるのも事実。
──やれやれ……。と、わたしは云った。云いながらくしゃみを二つする。
そういえば、お母さんが息をするように通い詰めている百貨店の経営者らしい高宮衣人・
どうしてかは分からないけれど、そんな記憶をもっている。
シンプルな思考を行っている間、お母さんはボウルをぐるぐると滅多矢鱈に零さないように振り回していた。
そのとき、わたしのチャンネルが切り替わる。頭の中の数字が二から五に変わったようなもので、具体的にどう変わったのかを他の人に説明するのは難しい。
それでも説明しろというなら、まずは幾らかの料金を支払うべきだと思うし、支払う気が一切ないのであれば死ぬべきだと忠告する。
──失敗だな。いや、あるいは成功かもしれない。
そう云ったのはわたしの知らない世界を生きていそうな幼女である。
──誰?
──……、ん。ああ、やっと戻ってきたんですね。お母さんは云った。
──誰なの? 記憶が、最近は混濁してて、駄目なの。わたしは云った。
云いながら、何度も何度もくしゃみをわたしは繰り返す。欠伸が漏れそうになって我慢。
わたしの知識によれば、くしゃみと欠伸を同時にすると、視神経に異常が起こって見えないものが見えるようになるという。
──
──うみ……。わたしの心の中に、青い夏空が広がっていく。
オレンジピールの涼やかな甘みが、渇いた口をわずかに潤した。
わたしは何かを忘れている。もしくは、忘れさせられている。もしくは……、覚えるという行為を拒否させられているのかもしれない。
拒んではならない、と誰かが云った。
そんな気がして目を閉じると、目蓋の裏にこびりついた圧迫感が何事かを囁いた。
──…………はぁ……。
仕方がないと思った。わたしは高かろうが安かろうが香水が大嫌い。その匂いは平穏をぶち壊すもの。
目を開き、微かな焦げた臭いのもとへ視線を移動させる。予想だにしない光景。
買ったばかりの電子レンジの中で、薄い靄に覆われながら死んでいるのは猫。
──どうやら、死んだ卵から孵ったようです。
──は? そんなわけ……、と云ったところで、わたしは急な浮遊感に左足の指先が痙攣するのを感じ取る。
ショートカットを掻き毟る。すると、赤い真珠のような血塊が爪に刺さっている。思わず口を開く、半分だけ。
──否、それは真珠に違いない。つまり餓鬼がいるらしい。そう呟いたのは有海とかいう人。
さまざまな香りがわたしをめちゃくちゃにぶち壊していくのが分かる。手に取らずとも分かる。
ただ感じる、それらの気配は無限の数字。いや違うの。違う違う違う……。それは、三つの九。縦でも横でも斜めでも何だっていい……。
三つだけ並んだ「9」を裏返せば、それは……三つだけの「6」となる。
いんや。特に意味はない。ふるふるとわたしは首を横だけに振って、安堵にも似たため息をふううううっと吐く。「3」「6」「9」は特別な数字です。そう云ったのは確か……いや、思い出せない。
──わたしだ。幼女は云うけれど、まったくばかばかしい!
──馬鹿なのはきみのほうだ。
──いんや、それに相応しいのは……、もっと相応しいのはあのお方よ、とわたしは云った。
お母さん。わたしが愛した母親。
──本当に?
幼女こと有海はそう云い、わたしの心のすべてを握っているかのような振る舞いをする。ようなじゃなくて、事実あるいは真実なのかも。
どうでもいいや、どっちでも。
けれどけれど。人間の運命は、常に楽しいほうへと流れてゆく、流れ出ていくものである……と信じている。
──本当に?
──ええ。きっとそうでしょう。お母さんは首を優雅に振るけれど、そこに隣人や家族を愛する臓器が内蔵されているのかは知らない。
──きみなら、できるだろう。どれほど高尚な人間であれ、いつかは愛を喪い、情を失い、本来もつべきあらゆるものを喪失する。
──……誰の、どこのどいつの言葉よ?
そうわたしは云った。
──鬼だよ。
──鬼です。
お母さんと有海は示し合わせたように同じ表情を浮かべた。
宇宙よりもずっと冷たい冷蔵庫の扉に棲みついている細菌みたいな血塊は、ゆっくりと流動的にその形を変える。
鬼なんていないし、人を傷つけたりするのは大嫌いなのよ。わたしはなお信じていた。
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