ドキュメント18
彼女のお願いを聞くことにする。あんまり覚えていないけど、おいらの記憶を参照してくれれば分かると思う。
安いイヤホンの通奏低音みたいな砂嵐的な雑音が頭の中で暴れ回っているような感覚に陥って、おいらは正気の喪われた(あるいは自覚的に喪失することを選んだ)世界で生きることを無理強いされる。
とはいえすべては自由自在であって、もしそうでないと感じたり考えたりするんであればそれはおいら自身の責であると思うから、従って誰かが悪いとかそういうわけではないことは確かだよ。
この世に確かな事柄は一つとして存在しないという考え方については、否定も肯定も難しいような気がするけど今はいいや。
彼女の肉体は存外すらりと艶めかしくて、おいらは手を握ってすぐに勃起してしまう。つまりそれは、この女を犯せという合図。
おいらは脳内でひしめき合う細胞たちをピシャリと黙らせて、一筋の光に向かって
おいらの神経細胞はその一人ひとりが好きな楽器をもって音楽を奏でる。おいら以外に観客はいないけど、ただ己がために。ある探偵が仰るように、『すべての出来事には確実な意味がある。』ということだよ。
フローリングに落ちた下着を、少女は泣きながらフライにしていく。溶いた卵は女の愛液みたいにテカテカと、ぶら下がるピーコックみたいな電球に照らされて輝いている。
おいらはふいに感動する。それと雨が、内部だけで燃え盛り空洞となった樹木を叩く啄木鳥みたいに窓を突っつく。
温度調整に失敗して爆発したコロッケみたいに、ママさんの下着は歪な形のシタギフライとなる。スローなセックスにしてくれ。という雰囲気の性行為においらたちは励みつつ、ママさんは娘さんがまさかまともに料理ができるとは信じられないのか目を白黒させているのを、おいらは興奮しながらも醒めた心で眺めている。
キスの味はアジフライの味。
あははっ! と声を上げて笑ったのはママさんで、おいらの息子はぎゅっと締めつけられてエロい悲鳴を漏らす羽目になる。
「ん、あっ、あっ、あっ……♡ んぅ、う……」
情熱の森林に潜んでいた陰核はひんやりとした空気に撫でられ固さを増し、おいらは執拗にその場所をちょっとだけ乱暴に触る。
こんな状況になって云うのはおかしい気がするけど、別にセックスをするつもりなんて全然なかった。「おいらのせいじゃない」と云うには説得力がないだろうし、じゃあ他の誰かの責任かといえば違うと思う。
おそらく脳が破壊されて情緒も壊れてしまったらしい女の子を、おいらは本気で可哀想だし哀しむべきだし悼むべきだし救われるべきだと感じる。「パン粉がない。パン粉がないの。ねえねえどうしてくれるの。責任取ってよ、ねえ──」と喚いている彼女を、これからどう慰めればいいのやら分からない。
ママさんの喘ぎ声はダズビーに似ている。
そのせいで、おいらはさらに熱くなる。
頭蓋が下半身に沈み込んでいくみたいな、酔いしれた奈落へとジグザグに堕ちていくような。
おいらの思考は濡れタオルのごとく重ったるくなって、安易に理解できるはずの現象が理解できなくなるみたいな断崖絶壁に立っているような。
おいらが「パン粉よりもね、小麦粉のほうが大事だと思うんだ……本当さ」と云うと、ママさんは小刻みに全身と声を震わせながらも「……そうではなく……、どちらも大切だと、私は……思いますが……っ」と福神漬けみたいに云い添えた。
射精しそうになっておいらは息子を勢いよく引き抜いて、脳髄が破滅しそうな快楽に目を閉じて我慢しながらよたよた歩く。途中で足の小指薬指を加湿器にぶつけておいらは呻くけど、実際大して痛くもなんともなく、快楽と快楽の間の空白に知らない女の子が入り込んでくる。
うう。ぅぅう、う。
そろそろやばいかもにゃ〜♡ 冷たい汗が腰から尻の割れ目を伝って落ちていく。
全部嘘。
嘘ってことにする。
そうしたいんだ。
話は変わるけどあらゆる物語にはジャンルというものがあって、けどそれは裏返せばジャンルというものは存在しないということを意味する。
訳が分からないかもしれないけどそういうことなのだ。とか適当云ってみるけどおいらは馬鹿ではないと自分では思ってる。
はあ? でもこの部屋は寒い。やけに寒いから、どうすればいいのやら。
そうしてママさんはトイレに向かう。おいらも娘さんも特に引き留めはしない。当たり前だけどさ。
ガクガクと霊魂を震わせて、娘さんは降りしきる雪を止ませようと踏ん張るシャーマンみたいな顔つきをする。ここで作者の考えを披露すれば、私は見ず知らずの他人との会話は悉く無意味かつ無価値であると考えている。いや、信じている。くだらないシーンをいくつ重ねたって最終的には何も残らないと私は知っているので、しかしながら私は語ること以外できない。それを知っている。ならばどうしたらいいか? …………。
少年は、どくどくと降りしきる雪のように泣きじゃくる少女の小さな背中をさする。「本当に雪が降ってるみたいだ」と少年は思った。彼は云った。
「僕は君じゃないから、君を救けることはできない。できないんだよ。けどね。僕は心底……君を助けてやりたいと思ってるのは事実なんだ」
「………………神に誓える?」と少女は云った。
「神? 神って神さまのこと?」
「……うん」
素直に頷いた少女は、先ほど慌てて口に詰め込んだシタギフライを吐き戻した。少年は地球が平行四辺形であったり六面体であったりする可能性を追求する気象学者のような泣き笑いの表情を浮かべ、少女はすんと無表情に戻る。
直後にトイレから帰ってきた母親の左胸には日本刀が刺さっていた。しかしながら、二人は少しも表情を変えなかった。
「えー。びっくりだなあ……」と少年は嘘を吐いた。「いや。嘘じゃないよ。僕はね、ずっと昔にね、東京大空襲に巻き込まれて身体のあちこちが傷だらけになっちゃったんだ。君もそうでしょ?」と彼は云い、少女もその母親も、残念そうに首を横に振った。
えー、びっくりだなあ……と彼は云った。
「じゃあちょっと、僕もトイレに行ってくるよ。確かめたいことがあるんだ」
そう云うと、A夫人はやめてください、セクシャルハラスメントになりますよ、と珍しく不機嫌そうに右目だけを器用に瞬かせた。すると、少年の自意識からなるフィルターを通さない世界は形を変化させる。
部屋中の明かりがすべて消え、かつて電気椅子の役を担っていた白のスツールにスポットライトが当たる。A子のそばの暗闇からするりと伸びてきた無数の腕が、色のない顔をしていたA夫人に脱ぎ捨てられた服を着せ、スツールに座らせた。
A夫人は、厳かに語る。
──まず、前提です。まず、下着とは性的対象のひとつの完成形です。そして、料理という行為は近現代的人間の営みの代表例です。
──でも……。
──邪魔をしないで、とA子は云った。
──まあまあ、泣かないでよ。彼は慰めるように云ったが、A子は立腹したようにキッチンまで二歩で行き、仕舞われていた安物の果物ナイフを鋭く投げた。
──……! ふっと二酸化炭素を吐き、少年は直撃寸前で唇を窄めて回避に成功する。
A子は舌打ちをし、中指を立てようとして自制する。
──素晴らしいことです。と、A夫人は安らいだように二度三度手を叩いた。
──エロティックなパンティを、フライに変えるという行為は、それ即ち、エロティシズムの脱構築なのです。と、彼女は言葉を続けた。
──……。阿呆かよ? 少年は、あまりの荒唐無稽さに辟易したように苦く笑んだ。彼は前髪を整えようと手を上げ、その途中で疑問が浮かんだ。
──あのさ。彼──
緑は額に皺を二、三本作り、浅い咳払いをしたものの、彼女の云った意味が上手く取れずに息を漏らした。
──A子さあ、僕より頭が悪いんじゃない?
──馬鹿ってこと?
彼女の不機嫌は怒りへと移り変わったようで、美しい姿勢で座るA夫人の臍にちょうど刺さった果物ナイフを無造作に抜いた。
──歩くの早いね、と彼は云った。
何か言葉で異常な事態を上書きしたかった。
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