ドキュメント17

 いくつもの首をもった怪物を、多くの人々は心に抱えている。なぜ抱えているのか?

 答えなど一つさえない。仮にあったとして、僕は臆病なチキンだから分からない。妹のジョゼフィーヌが死んだから僕はジョゼフと名乗るようになったし、実際のところ妹が本当に死んじゃったのかは僕の知るところではない。

 僕はもうすぐ三十になる。つまりまだ二十九歳であるわけだけれど、だからって何かが具体的に変わるわけではない。


 でもどうしてか気に入らない。

 僕は平凡な日本人であるからして、名は体を表さないというわけであり、追い詰められた人間は皆やがて群馬県あるいは福井県に集まる。


 は? ばかばかしい。笑い声が、笑い声が二度と止まないんじゃないかと思えるような上半身の痙攣を引き起こす。

 ひとりの幼女は薄い唇を引き結び(その色は若葉のような初恋を花咲かせている。当たり前のことだけれど)、次々と眼前に並べられていくニワトリの唐揚げをじっと見つめている。

 伝説の政治家が仰るように、『赤いものを反転させれば青いものへと成っていき、青いものを反転させれば赤いものと成る。』ゆえに、僕は非現実世界に降り注ぐ雨を現実のものだと錯覚してしまう。

 まあ、ともかく。

 僕は幼女にとても優しく柔らかく声をかける。自由のために。祈りのために。


「ねえ君……。ニワトリって知っている?」

「…………」

「おや。もしかして、知らないのかな」

「………………」

「美味しいんだ、唐揚げって。だからね、君の子宮の奥に隠れている……、雪国の王さまを引きずり出したいんだ。良いかなあ?」


 両手をすりすり合わせながら云うと、幼女は大人しそうな小鼻をふんぬーと微かに膨らませる。


「ジョゼフくん」

「はい」と僕は真面目ぶる。彼女の声は混じり気のない透明ではなく、ほんの少しだけ淀んだ血だまりのよう。

 つまり、僕の好みといえた。


「ジョゼフくん。きみのことを、わたしはよく知らないけれど、よく知っている」と云い、箸をわたしに寄越せとばかりに瞬きを素早く四回かました。

 暗闇から緩慢に現れた無数の腕が彼女を取り囲む。


 僕は「やめてほしいな。すごく震えているよ、僕の両腕が」と丁寧に云った。いつもそうだ。僕はいつもいつも他人のことを思って行動しているので、知らないものと出会うたびに震えを催してしまうのだ。

 彼女──有海うみの臍がものすごく綺麗で美しいことはとっくに承知しているけれど、こんな特技があったなんて知らなかったな。


 これまた丁寧にそのことをできるだけ正確に伝えると、これらの腕はバスケットボールが得意でね、名前はチャールズ氏というのだよ、と彼女は答えた。


 僕は少なからず驚きを覚えた。チャールズ氏。チャールズ氏ね……。死んでほしいとはまったく思っていないけれどね。


「彼は……あの大学の准教授だか助教授だかだよね?」

「きみもよく知る人物のはずだろう」

「え? 知らないよ、僕は。一度も話したことがないんだ」

「しかし昔──九年と二ヶ月前だったか、きみは彼と話していただろう」

 幼女の声音は真実のみを捕らえる網のように堅くしっかりとしていて、思わず僕は頷きたくなるけれども、本気で覚えがない。


 そして僕は、バスケットボールがどのようなスポーツなのかすら知らないし、知ることはなんだか危険な気がして訊けもしなかった。

 大仰なため息ののち、彼女は「ひとまず、食事を済ませようか」と小さく呟いた。チャールズ氏もどうやら大層腹を空かせているようだ、と云いたげな目で僕のほうを一度だけ見た。


 彼女は九年前、果たしてこの世に生まれていたのだろうか? 疑問に思ったけれど、世の中には口に出すべきでない質問が溢れに溢れかえっていることを僕は既に学んでいる。

「僕も……とてもお腹が空いていたんだ」とか云ってみるけれど、有海は食事に集中しているのかこちらを一瞥もしなかった。


 チャールズ氏はゴム手袋をつける。僕と同様に平凡かつ平和の象徴ともいえるような白くなめらかなゴム手袋は、彼の生々しい腕によく似合っていた。

 ところで……と僕は云う。どうした、と彼女は答える。その瞬間に云うべき言葉を喪った僕は俯き、人体はいくつの骨が合わさりできあがっているのかがやたらと急に気になってくる。けれど、訊ねたりは決してしないよう心に決める。


 しかし、ちょっと待ってよ、と僕は云った。

「そもそもここはどこなんだよ? それに、こんなにも美味しい唐揚げは初めてだよ……」

 僕は感動していた。軽くはない衝撃がずんと襲いかかり、でもチャールズ氏の無数の腕は着々と唐揚げの山を削っていく。

 彼女は云う。

「この場所をわたしは知っている。あるいは知らないが、知っている」

 つまり、どういう意味なんだろう?

「作者に訊ねればいいだろう」

 おいおい。僕は困ってしまう。そんな予想外に僕はキャッチできるはずのボールを捕らえ損ね、この部屋はとある一軒家のリビングです、と答えてくれた声の主を見逃してしまった。


 僕はわずかに時間の流れを弄る。その結果、目に映ったのは妹によく似た十三歳程度の女の子だった。

「いえ。わたしは高校生です」

「……ふうん。そうなんだね」

「はい」

 何かを話そうにもネタがなく黙って唐揚げの味に脳を蕩けさせていると、女の子はこう云った。

「あなた、左目を取り外せますね?」

 君と同じだよ、と僕は思った。キッチンで顔を洗った。




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