ドキュメント15
ドン・キホーテのドン・キホーテ。
樹齢三千年の楠には愛の精霊が住んでいる。根っこの一本の先っぽをチューチューと吸っては酸素と絡めて純化して、と嘘っぽい本当を語る少年の表情は朗らかで嘘の匂いは一切見られず、彼女もうんうんと馬鹿らしさを滲ませながらも無表情を保っている。
辛うじて保たれた均衡はいつ崩れゆくのか?
誰も知らない。
どんな素晴らしい歌にも欠点は表れるように、欠点こそ美点だと苦しげに云うのは芸人オデュッセウス。まだたった五歳ばかりの彼のお尻はつるつるで毛一本ない。
何年昔の話だか分からぬけれど、神さまはきっとお知りになられておるから、どうか粗相のないように願います。語りはだんだんとゆっくりそしてメロメロになっていく。遥かなれど恥ばかり重ね、若干の成長を過ぎた少年は首ぜんぶまで真っ赤に染める。
オデュッセウスは幼稚園で偶然出会った三つ子ちゃんたちと遊んでいる。ブラウン管以前の少年は、首から下げた金時計をぎゅっと握って深呼吸で「んあ。おいら落ち着けハナミズキ〜」と鼻歌とデュオる。
女性の襤褸雑巾じみた遺体はいかにも痛そう。だからこそ、少年はただ首を垂れてその死を悼むのだろう。
中年の女、彼は彼女を想う。一目惚れなんか信じていないし、信仰はある種の盲目の母であり、父であり娘でもある。分かっていた。ゆえに殺したなんて理由にもならないと彼は思う。ある吸血鬼の少女は、ブダペストに行けばすべてが救われ問題解決すると熱心に信じている。
赤すぎるほどに赫赫した月にも似たまんまるい両眼を一目見たその瞬間から、彼は恋をしたような気を覚えてそわそわが止まらない。結果としては夢であったうえに、思春期の少年は精をどぱりとたくさん漏らしていた。
「おいらめ!」と彼は何度も叫んだ。
「意味がないくせに! 判ってる解ってる! ぁ昔からそうなんだ…………」と突然かつ当然の成り行きみたいな感じで涙を溢す。垂れ目なクソガキめが! とおいらは鏡もないくせに完全に理解したフリで泣き喚く。
かくんと膝を折る。んーと、とりあえず、話を戻そう。誰にも花束を向けないように、と少年は慎重に言葉を選んだ。
「花束?」
「そ。んふう……♡」とため息。
「分かんない。足りないよそれじゃ」
「そ、そう……」
おいらにだって知らないこととか知らない場所とかいっぱいあるし、と云ったところで、少女は「どうしてわたしのお母さんを殺したの?」と核心を突いた。物語的に重要ではあるけれど、彼は興味を抱いていなかった。
「中身の赤ちゃんだよ。おいらはね、知ってるんだ。馬鹿だけど……しかも阿呆丸出しだし笑えてくるだろうけど知ってるんだ」
彼はできるだけ早口で、真実やら事実やらから遠ざかろうと気を焦る。あるいは近づき続けているのかもしれぬ……。
それに対して、彼女はふんふんと浅く頷いてから云った。
「ふーん……知ってたんだ」
「あれを見れば…………どんな愚鈍だって気づくよぉ」
「わたしは知らなかった」
「……」
クエスチョンが少年の脳みそに渦巻く。ほらほら見て、と彼は指を差す。差した先には、玄関の血だまりから逃れようと奇妙な体勢で手足を細かく振動させている、少女の母親がいる。ぎとぎとに粘っこい汗と血をダラダラ流す女はまさに穢れそのもので、しかし若い娘は「お母さん」とやや嬉しそうに声を弾ませた。
嬉しそうかね? そう思わずにはいれない、少年にとって。するとズブズブと肝臓の深いところから罪悪感の塊のような何かが、何かが続々と昇ってくるのを彼は感じる。
罪悪感? そんなもの、おいらの内側に存在しただなんて……と思う。愕然に近い衝撃。
若い女の脂汗は非常に美味らしいと、オデュッセウスは園の先生から聞いたような気がしたけれど、絶対に嘘だろうと思っていた。
永遠なる流浪者にとって、渇きを知らない水はどんな愛液よりもトロついて思わず自我を超越してしまうものであるように、オデュッセウスは自分が生まれながらの道化であるような予感と導きを幻視していた。
なんだ、おいらは殺してなんかない。そう安心して腰が抜けかけた彼は、一向に話が進まず苛立ちを募らせる読者のような心持ちで地団駄を踏んだ。
殺したはずの、いや……殺しきれていなかっただけ? なら良かった、と彼は思う。ふう……と軽いとも重いともつかない息を吐き、すっと背筋を伸ばして一安心。
安心? 何に安心しているのかも分からないが、とにかくそういうことだった。
「お母さん」
おいらは黙っていた。
「お母さん」
少年は黙っていた。どんな家も透明な視線に覗かれている。しかし、彼は知りようもなかった。
ゆさりゆさりと母親の身体を揺する少女。そして、ダンダンと激しいノックが響く。
「……、パパかな?」と彼。
「お父さんは死んだの」と少女。
「死んだ? へー」
彼は興味をもっていない。ファミリーマートのトイレで死んでいた十三歳の少年は彼の弟でも妹でもないが、オデュッセウスの記憶を通じて知ってしまったときには、血を吐いてしまいそうなほど息が詰まって思考も停まり──悲哀に溺れた。
あるいはそんなフリをしていたけれど、感情とは愛が根源にあり、愛ゆえ悲恋にも喜恋にも溺れきって生きていくほかないのだろう。
くだらないよ、おいらにとってはそうなんだ、と少年は笑むが、なおもノックは弱く強く断続的に響いている。
「そろそろ怖いよ……♡」
少女は母親の背をさすっている。
うるさい音ぜんぶが消えればいい。
やがて、理由の分からない不安と気まずさに堪えかねて、彼女は苦く呻く女をどうにかこうにか座らせる。手伝おうか? え? と彼は訊いたが、少女はさらりと無視して「お母さん。お母さん」と頻りに優しく話しかけている。
「一体全体、どこのどいつが君のママを傷つけたんだろう? 怒りはおいらの原動力だからね」
そう少年は云う。冗談にしてはあまりにつまらなすぎる、と彼女は思ったが、具体を伴う言葉を漏らすことはなかった。
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