ドキュメント13
違うんだよ。「何が違うの?」そうじゃなくてさ、僕はね……。「うん。なに?」いやなんか怖いよ? もしかして怒ってる? 「ううん、怒ってなんかない」嘘だよ。「嘘じゃない。ぜんぶ本当で本物の世界なの」…………。ところで……猫子に電話したんだ、さっき。「ふうん。そうなの」そうなんだよー。でね、僕はやっぱり君じゃなくて猫子のほうが、と云いかけたところで、涅槃は僕の名前を優しく呼んで云った。
「わたしはずっとここにいるの。良羽の心に、もう永久に棲み着いているの」
「とこしえに……?」
「うん、そうなの」
「……それって、楽しい?」
そういえば、僕はしばらく歯を磨いていないことに気がついた。
彼女は「もちろん嬉しいし楽しい。良羽のことは忘れられない。だからね、わたしも同じことをしてもいいよね?」と首をコテンと傾げる。
僕はテレビを消した。何も見たくない。見たくないから文房具屋に行ってハサミを購入して、そのハサミを使って自分の眼球を取り出して切り刻んだ僕は、すべてが夢であるような気がしてきて歌い出してしまう。
カニチャーハンは夢のもと♪
温風 旋風 内部の梅は〜♪ ポプラの木〜♪
朝稽古に朝餉をひとつ くださいな♪
おしゃべり おしゃぶり 内部の実〜♪
まったりゆちゃーり♪ もうたくさん!
これは恋の歌。くだらないクリスマスソングラブソングとは一線を画す傑作であり、同時に僕の最高傑作である。
僕はサンダルを履いて冬の海に肩まで浸かり、プカプカと浮き輪に乗って流されて、これは現実だと自分に云い聞かせる。
あまりにも醜い顔面をもって生まれた賢吾は何度も僕を殴った。たぶん嫉妬。あるいはみんな五十歩百歩なんだって作者は云いたいのかもしれないな……と僕は思った。
馬鹿め、馬鹿め。
かなしい恋より愛しい恋。あるいはどっちも悲しいんだろうな。
誰かが眠る僕の頬をつついた気がして、目を覚ますと、僕とオデュッセウスは大学の食堂でカニチャーハンとパサパサのコロッケを一緒に座って食べていた。
僕らの向かいに座る女の子たちはお喋りをさっきから大声で唱えている。
「迷惑」
オデュッセウスは云った。
「そうかも」
僕は云ったけど、僕の意識はどこか別の場所へとふわり飛翔している。
女子大学生は語る。僕は透明な精神で耳だけを傾ける。彼女は語ろうとする。しかし、邪魔が入るので、僕はそれをグーパンチで撃退する。
今だけは、今だけ僕はネットサーフィンの神になったみたいだ。全知かつ全能の神。たったひとつだけの神様な僕にできないことはなく、しかしながら彼女の言葉の真偽を知ることはなぜだかできなかった。
まずは裏切りなのよ、と彼女。
裏切り? ともう一人が訊ねる。
そう。裏切り、それもひどいものよ。
どう、どんな感じなの?
それは分からないけどね、と彼女は瞳を爛々と光らせる彼女の脛に蹴りを入れる。
早々に飽きた僕は神様ごっこをやめ、ブラウン管テレビを頭に被った中年男の人生を少しだけ切り取ってノートに貼る。僕は自分の部屋にいる。
彼は生まれたとき察した。「おいらは幸福にはなれない」ふむ……確かにそうかもしれないな、と父親は云ったらしい。真偽は不明。
彼の名前は誰も覚えておらず、彼が十一歳になった三日後に、父親は文字通り蒸発した。まだ少年であった中年男の首筋に舌を這わせていた母親も見ていた──父親が空気に溶けていくその様子を。
それは真っ赤な太陽が雲を灼き殺した暑い昼下がりのこと。少年は金色に輝く時計を首にぶら下げて歩く。途中で少年Bに遭遇する。彼はこう云った。
「ぼくの書いた詩を読んでくれないか」
「ああ」と少年は答えた。
その瞬間、頭上を飛んでいたカラスを撃ち抜いた銃弾が何の因果かBの左の鼻の穴に吸い込まれるように命中し、彼の脳みそをグチャグチャに掻き混ぜる。
垂れてくる命の水は生暖かく強烈な生の気配に塗れ、その香りを嗅いだ少年は激しく勃起──そして芽生えた恋の波はレインボーで、兎にも角にも彼は狂ってしまった。
急いで走って家路につきかけた少年は誰もいない家に侵入し、奥から出てきた中年女性の肥った腹をアーミーナイフで音もなく切り裂き、女性は「あぶううう……が、ぅ……ぅううううう……」と残響を遺して蝋はすべて溶けきった。
少年は思う。「おいらは悪くない。世界が悪いいや、世界のほうが少しだけおかしくなってるだけなんだ」「世界は狂ってる。おいら以上に世界は狂っている」うふふ、うふふ、と笑った彼はいつの間にやら洗面所で顔を洗って手を洗って首を洗って満足に顔を綻ばせている。
既に勃起は治まっている。ふにゃちんである。残念に思いつつも、おいらの未来は夢と希望で満ち満ちていると深く信じ込んでいた。
彼は偶然盗みに成功した金の時計を右ポケットから掴み出す。うひひひ……とほくそ笑む。気持ち悪いと自分でも思ったが、気のせいにして気にしないようにする。
少年がブラウン管テレビで頭をすっぽりと覆うのはこの十四年後のことである、とだけ伝えておこう。
死んだ女性の背後からは油っぽい匂いが風に運ばれ漂い、彼はすんすんと鼻の穴を動かし恍惚に背骨を撫でられる。
匂いを追って歩を進めると、そこには女性の娘であろう高校生がアジフライを揚げていた。欲求に魂すら捧げている少年は云う。そっと云う。
「おいら、欲しい。アジフライアジフライ。大好物だよ」
「ひょえっ」とびびった高校生は両手を滑らせ、箸から離れたアジフライの一匹が宙を舞うさまを少年はじっと見つめた。空を泳ぐアジフライはまるで蛇のよう。
蛇? んなわけあるかぃ!
と、異様にスロウな世界で愛を叫んだ少年は少女の膨らんだ胸を見つめる。とろりとした蜜は、彼の少し垂れた両の目を鮮血で彩る。
愛。愛愛、愛。それがどうした? 愛だの何だのうるさくしないでね。おいらは何も求めちゃいないんだからね。
でも君がもし、おいらの愛が欲しいんだって心から願うんなら、うん……考えてやらなくもないんだよ。
時間は存在しないだとか、てかそれ嘘! で物理的にも精神的にもあるんだって云うんなら、おいらは何も願わない。世界は一匹の鯵が(鯵は薄緑の飛行体)アジフライに変質する過程で起こる泡立ちであり、ぜんぶ泡なんやって……。
んふう。彼は目の前の少女が危なげなく掴み取ったアジフライの鉛のような焦げ目と目を合わせる。少年の黒い瞳は何も映さない。愛だなんて愛じゃない。でも良いじゃない。
時計の針はほんの少しだけ、世界の終わりを遅らせて、彼ら彼女ら微笑浮かべてその心、もはや海のよう。大海をひたすら潜っていくシロナガスのように、地も星も獣性をほんの始めから備えている。
言葉は飾るためにあり、あるからこそそれゆえ飾るのだ。そうしてくれ、彼は少女に向かって云った。
「何のことやら」と彼女は笑みも浮かべない。
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