ドキュメント10

 しょうむない話ばっかりしている賢吾は(フルネームは大久保賢吾)、とにかく疲れていて、どうして疲れているのかは僕には分からない。知る由もない。知りたくもない。

 知らないことの愚かさに立腹する僕の祖母は、毎日のように、道行く人々の踵に両手両足で縋りついてこう訴えかける。


「おお。おお、皆さま……どうか。どうか我らに与え給え……。施しなさい、金を、金を寄越しなさい! …………」


 僕はどうにも理解が及ばない。それはたぶん、この僕──今村仁の頭が悪いからだろうと思う。けど、たぶんあまり悪くはない程度だとも思っている。

 自分を愛せる自分が大好きで、いろいろ大事なものたちを得てきて失くしてきて、その繰り返しの中で希望も絶望もない混ぜで笑えてくるけど、でも本心から笑っちゃいないかもしれない。

 祖母の名前はよく知らない。だからこそ、彼女を完全な他人として見ることができるし、軽蔑することだってできるんだと思う。


 煙草を咥えている大学生が通りかかり、彼の耳たぶに突き刺さったピサの斜塔のミニチュアは精巧を窮め、僕の知能ではまったく理解不能なほどの技術の結晶であることが窺える。

 祖母は吠えた。犬のように。ああ天国か? 僕の脳裏に現れるのは暗い幻影で、定まった形をもたないクラゲのようであり、あるいは仔猫にも見える。


「うるせえよ。どっか行けよ。つか逝け」

「やだ! やだ嫌よ嫌よ! うううう」

 そう叫んだ彼女は、煩わしそうに唇の端に張りついた青海苔を舌で触っている大学生の煙草に手を伸ばし、簡単に振り払われ泣き出す。

「ギャニョ…ギャニョオオオオオン…ギッギギッギッギヒ!」

「え?」


 僕の目は真っ赤に染まる。怒りの炎が眼球を灼いているようで、僕は思わず文鳥じみた鳴き声を上げて両目を閉じる。

 うるせえようるせえよと声を漏らし続ける彼の輪郭は次第に薄れ消え、けども祖母の輪郭は墨のように黒く滲み続けて僕は発狂しそうになる。終わりのない叫びは多重に響き、僕のぐちゃぐちゃな脳みそを掻き乱す。そこに「今村くん!」と呼ぶ声が乱入してくる。

 おっ……? おっおっー。僕は軽快に返事を投げつける。

 そこでニュースが流れる。僕はとある中華料理屋の汚いテーブルに肘をつき、爪楊枝で目玉をつつきながらテレビを眺める。


「──僕の名前は今村仁! つむじ風より速く、ハリケーンよりも穏やかに微笑む僕の御姿は神々しいだろう! ああだがしかし。しかし、愛情こそがすべてである! (と云ったところでコマーシャルが挟まれる)──つまり僕こそが、ハンサムでベリーグッドな紳士なりや!」


 恥ずかしい。並行世界の僕はこんなにも、これほどに醜悪かつ秀麗であるとは驚きだった。そのせいできっと、僕の瞳は真っ赤に燃えているんだろうと思った。




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