ドキュメント09

 天国に行った犬は今、幸せに生活しているだろうか? 僕にはもちろん分からないけど、犬には犬の幸福があって、僕には僕の幸福があるというだけの話じゃないか! と腹を立てた僕は、何でもいいから無茶苦茶にしたくてたまらなくなる。

 ああ降り止まない雨みたいに怒りは止めどなく溢れ溢れて、僕は制御不能に陥り今すぐにでも、今すぐにでも爆発してしまいそうだった。

 これはもちろん比喩的なあれで、もちろん僕は一般的人間であるから爆発なんてするはずがないけど、もしかして……? という気持ちが内臓のどこかにある気がしなくもない。

「──ここ。どうですか」

「えっ……、ど。どうなんでしょう、か……?」

「真面目に答えてください。どうですか?」

「ま……」

 ここで僕は静けさに身を委ねたくなって、黙るという行為以外、頭の中からぽんぽんと抜け出していった。

「と。というか、あなた誰なんです……」

 そう訊くと、やたらと光る禿頭で僕の眼球を破壊しようとしてくる彼は、こう云った。

「あなたの妻です」

「………………」

「嘘ではなく、真実なのです」

「……嘘だよ」

「いいえ」

 と彼は答えて、僕はひたすらに輝きを増していく禿頭に目が眩み、そして、意識が濁ってきて、もしかすると意識というものは心臓に宿っているのではないかという思考が全身を駆け巡り、光は途切れた。


 僕は天国で犬と遊び、それが醒めた頃にはやはり夢だった、と嘆く暇もなく電話がかかってきて、彼はこう云う。

「明日、会おう」

 僕は黙る。僕の内側で喚いている女が「黙れ」って命令したから仕方なく。

「なあ、明日な。良いだろ?」

 僕は黙る。ちゅうんちゅん鳴く小鳥が、小さな花火みたいな糞を落とす音が聴こえ、僕は一句詠もうとして腹痛に襲われる。

「うぐうふ!」

「ん……?」

「い、痛いんだ……」

「痛いってどこが」

 僕は答えず、散らかった狭い部屋に高く積まれた本の山に手を突っ込み、ごそごそと探るうちに痛みはどこかへ去り、「もう痛くないよ」と泣きそうな声で云った。

「泣いてんの?」

「……泣いてないよ。絶対」

「ふうん」

 と彼は云い、じゃあ明日、と僕が何かを云うよりもずっと早くその言葉は耳に垂れ流れ、電話は切れる。ここで気がついたことが一つあって、実際のところ僕は犬も猫も嫌いだった。


 その日は四時になる直前くらいにドアを開け、外気に触れた僕の左手は燃えるような熱さを覚える。訳が分からなかったけど、そういう現象が起きてもそれほどおかしくない気がしていた。

 大学図書館の二階の多目的トイレで、自慰に耽る愚かな青年は後悔していた。

 本気で後悔していた。それはあまりにも間違いがないが、同時に間違っているような気がしてならなかったのも事実であった。

 彼は飼っていない猫に餌を与えるうちに自殺願望が高まり、裸足のまま外へ出て、気狂いじみた叫声をまき散らしながら千鳥足で夜を歩いた。


 青年は詩人になりたかった。それゆえに詩人にはなれなかった。大学時代の恩師は彼からすれば確かに詩人だったが、恩師は「私は詩人ではない。そうではなく、赤い猫なのだ」と云った三時間後に研究室で首を吊った。

 そんな曖昧な事件があった後、青年はトイレの灰色の壁に大量についたショ糖が気になり出す。

 彼は砂糖が大好きであり、また塩を憎んでいたが摂取するのをやめられなかった。不可解な現実理解こそが虚構と幻想を混合させ、より現実の尊さを際立たせるのだと信じていた。

 顔のない亡霊となった恩師は云う。

「この世に一つとして、尊いものなどない。しかしながら、君は尊いのかもしれない……」

「あゔっ」

 彼は驚愕の渦に飲まれ、なら僕は詩人になれたんですね!? と息を荒げて訊ねた。身を乗り出し、そこは四階の窓際であった。

「そう。そこから一歩でも二歩でも踏み出せば、踏み出してしまえば、簡単なことじゃないか」

「初めて入りましたよ、あなたの研究室に」

 そう青年は云って、すべてが夢であると直観した。




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