第28話 安喜発、試しの一矢
幽州からの書状が届いてから、三日。
安喜の広間には、地図と札と帳簿が広げられ、
そこに劉備と関羽、張飛、敦、梁、趙寧らが顔を揃えていた。
「では――」
敦は、指先で地図の上をなぞった。
「“安喜が今、どこまで動けるか”を確かめるために。
いきなり大軍を出すのではなく、
まずは“試しの一矢”を放したいと思います」
「試しの一矢?」
梁が首をかしげる。
「はい。
狙いは三つ。
ひとつは、兵。
安喜全体から、どれだけ早く兵を集められるか。
ひとつは、兵糧。
村ごとに預け合う形にした米が、
実際にどれだけ早く動くか。
もうひとつは、“話”。
戦ではなくとも、
安喜から出て戻る列があれば、
その話がまた村々へ広がります」
敦は、地図の一点を指さした。
「狙いは、この村です」
梁が身を乗り出す。
「北の街道と、冀州へ抜ける道の分かれ目にある村……」
「はい。
この村の周辺に、
黄巾の残りか、あるいはそれに乗じた賊が出るという噂が、
ここ数日続いています」
趙寧が、別の札を取り出した。
「先日も、
荷を運んでいた商人がいくらか物を奪われたと訴えてきましたな。
ただ、数は多くなく、
十人に満たないようです」
「ならばなおのこと、好機です」
敦はうなずいた。
「敵の数が少ないうちに、
“安喜がどう動くか”を試しておきたい。
ここで手間取るようなら、
いざ大きな戦の時にはもっと手間取りますから」
劉備が、敦の言葉を黙って聞いていた。
やがて、静かに問う。
「敦。
その“試しの一矢”に、
どれほどの兵を出すつもりだ」
「五十です」
広間にいた者たちが、わずかにざわつく。
「五十……少なくないか?」
張飛が眉をひそめる。
「俺と雲長兄と、お前が付いていくならともかく、
賊の数もはっきりしねえのに」
「だからこそ、五十です」
敦は、張飛を見て微笑んだ。
「この数なら、
“本当に足りなかった時”には、
安喜から第二の列を送る余地が残ります。
最初から百を出してしまうと、
“もう出せない”というところから考えないといけない」
関羽が、静かに口を開いた。
「五十を“槍の列”として動かすのだな」
「はい。
北辺帰りの者を中心に十人ずつ五列。
普段は、それぞれが別の村の槍の列を教えている者たちです。
今回は、“教える側”が一つにまとまって動く」
「なるほど」
劉備がうなずいた。
「では、その五十には誰が付く」
張飛が、待っていたとばかりに顔を上げる。
「長兄、俺がいく」
しかし劉備は、首を横に振った。
「翼徳、お前は安喜に残れ」
「は?」
張飛の顔に、露骨に不満が浮かぶ。
「なんでだよ、長兄。
やっと“暴れていい”って話が出てきたと思ったのに――」
「暴れるために兵を出すんじゃない」
劉備の声は、柔らかいが揺れていなかった。
「今回は、“安喜がどれだけ動けるか”を測るための矢だ。
安喜に残る者も、
出て行く者と同じくらい大事な役目を負う」
関羽が、わずかに口を開いた。
「兄者。
では、俺が行こう」
「雲長、お前も残れ」
その言葉に、関羽が目を見張る。
「……兄者は、この試しの矢を、
どれほどのものと見ている」
「“これから先の全て”を見るための矢だ」
劉備は、はっきりと言った。
「だからこそ、
俺が行く」
敦は、その一言に息を呑んだ。
「長兄……自ら、ですか」
「敦」
劉備は、静かに笑った。
「伯珪の下で白馬の横に立った時、
“他人の軍の一部”として戦うことはできた。
だが、安喜の杭として戦う時は、
俺が先に立って形を見せなければならない」
関羽と張飛は、
その言葉に反論を飲み込んだ。
それぞれの胸の内に、
「兄者」「長兄」と呼ぶ相手の覚悟が伝わってくる。
「では、こうしましょう」
敦は、ふっと息を整えて言った。
「長兄が五十を率いて出る。
俺は長兄と共に行きます。
雲長兄と翼徳兄は安喜に残り、
“安喜が動く”方を見てください」
「動く方?」
張飛が首をかしげる。
「はい。
兵を出すだけでなく、
“残る側”がどう動くかも試したいんです。
広間の秤が狂わないか、
兵糧の預け合いがちゃんと回るか。
それを見て、
必要ならすぐに手を入れられるようにしておきたい」
関羽が、静かに頷いた。
「分かった。
兄者と敦が矢となって飛ぶなら、
俺と翼徳は弦として残る。
矢が戻る場所を、
しっかり張っておこう」
「雲長兄……」
張飛も、腕を組みなおした。
「分かったよ。
長兄、敦。
お前らが試しに行くなら、
こっちで“次に百でも二百でも出せる準備”をしてやる」
劉備の表情に、
微かな安堵が浮かんだ。
「頼む、雲長、翼徳」
敦は、心の中で静かにうなずく。
(これで――
兵の杭、兵糧の杭、話の杭。
全部を、一度に揺らしてみることができる)
* * *
翌朝。
安喜の広場に、朝靄が薄く漂っていた。
そこに、五十人の兵が集められる。
北辺帰りの兵たちが中心だが、
中には安喜で新たに鍛えられた若い顔もあった。
敦は、一人ひとりに目をやりながら、
列の形を確かめる。
「十人一列。
今回は、“全部が槍”ではなく、
後列の中に棍と楯を混ぜています」
敦の説明に、劉備が頷いた。
「通路の中で“転がす役目”か」
「はい。
翼徳が選んでくれた“殴り合いの得意な連中”です。
槍の穂先の後ろで、
壁の中に飛び込んできた敵を外へ投げる」
張飛が腕を組んで見守っている。
「ちゃんと見ろよ、敦。
あいつら、
俺が半日ぶっ続けで転がし続けても、
まだ立ってたんだぞ」
「それはそれで、
少しやり過ぎな気もしますが」
敦が苦笑する横で、関羽が口を開いた。
「兄者。
五十の槍と棍。
これをどう動かすか、
兵たちにも聞かせてやってくれ」
劉備は頷き、前へ進み出た。
「皆」
静かだが、よく通る声。
「今回の出立は、
“大戦”ではない。
だが、“安喜が外へ出て戻る”ための、
最初の形を作る戦だ」
兵たちの視線が、一斉に劉備へ集まる。
「狙いは、北の分かれ道にある村と、
その周辺に出る賊徒だ。
俺たちが見たいのは、
“賊がどれだけいるか”よりも、
“安喜の槍がどれだけ動けるか”だ」
劉備は、指を折っていく。
「道のり。
兵糧。
戻りの列。
それら全部を、自分たちの足で確かめてくれ」
敦は、その言葉を聞きながら、
心の中で現代風の“行軍表”を思い描いていた。
(安喜から分かれ道の村までは、一日半。
途中の村に、
あらかじめ米と水を置く。
往きでどれだけ、帰りでどれだけ使うか。
全部、数字にして持ち帰る)
劉備は、最後に一言だけ付け加えた。
「――そして、
誰一人、無駄に倒れるな」
その声に、
兵たちの胸がきゅっと締まる。
「敵が十なら十に、
二十なら二十に、
きっちり“十と二十の分だけ”勝てばいい。
それ以上のものを望んで、
命を捨てるな」
敦は、その言葉に深く頷いた。
(この人は、本当に“守る戦い”しか考えていない)
それが、未来の大乱を前にした
武将として強みになることを、敦はよく知っていた。
* * *
出立の号令がかかる。
五十人の列が、
安喜の門を出て北へと歩みだした。
門の上から、
関羽が黙ってその背中を見送っている。
「雲長兄」
隣で張飛が、腕を組んだまま言った。
「やっぱり、俺も行きてえ」
「俺だってそうだ」
関羽は、静かに応じた。
「だが、兄者が矢なら、
俺たちは弦だ。
弦が緩めば、矢は飛ばない」
張飛は、しばらく黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。
「分かってらあ。
よし、雲長兄。
こっちも“試し”をやるぞ」
「試し?」
「兵を出したあと、
安喜の中がどれだけ動けるかだ。
兵が足りなくなったところはねえか、
槍の列を組み替える必要はねえか。
あとは――」
張飛は、広間の方角を顎で示した。
「兵糧のことは、梁と趙に任せりゃいい。
俺たちは、
“ここが襲われたらどうするか”を一度考えておく」
関羽が、わずかに目を細めた。
「守りの稽古か」
「おう。
外に出てる五十を助けに行く時、
ここが丸裸じゃ話にならねえからな」
関羽は、門の外へ消えていく列を最後まで見届けると、
静かに踵を返した。
「では――
ここの“動く壁”を、
もう一度見直そう」
* * *
一方その頃。
安喜を出た五十の列は、
北へ続く街道を着実に進んでいた。
敦は、先頭付近で歩きながら、
道の両側を注意深く見ている。
道幅、地面の硬さ、
水場の位置、
村との距離。
全てを頭の中の“行軍表”に書き込んでいく。
「敦」
劉備が、歩調を合わせて声をかけてくる。
「何か、気づいたことはあるか」
「はい、長兄。
安喜から半日のところにある村――
あそこを一度、“兵糧の節”にした方がいいと思います」
「節?」
「はい。
今は、
役所から村へ米が動く時、
村ごとに“行き先”が決まっています。
ですが、
あの村だけは、
“行き先”と“通り道”の両方を兼ねている。
いざという時、
そこに米と水を多めに置いておけば、
北へ行くにも、
南へ戻るにも、“一息つける節”になります」
劉備は、静かに頷いた。
「分かった。
戻ったら、梁と相談してみよう」
敦は、ふと前方を見やった。
街道の先に、
小さな森と、その向こうに煙が上がっているのが見える。
「長兄」
「ああ。
分かれ道の村だな」
そこが、今回の“試しの一矢”の着地点。
そして――
安喜の三つの杭が、
どれだけ地に刺さっているかを確かめる場所でもあった。
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