第27話 安喜の三つの杭
安喜に戻ってから、ひと月。
冀・幽の境の冷たい風とは違う、
少し埃っぽくて、どこか湿り気のある風が、
広場を吹き抜けていた。
「前列、半歩下がれ!」
関羽の声が、広場に響く。
「後列、一歩前へ! 槍は腰から!」
十人一列の槍が、
ざっ、と地面を踏みしめて入れ替わった。
安喜の広場の真ん中に、
動く壁がひとつ出来上がる。
その壁は、
押されれば半歩引き、
引かれれば半歩出る。
北辺の狭い通路で磨かれた動きが、
今は安喜の土の上に落とし込まれていた。
「そこで止まるな」
関羽は、さらに続ける。
「足を運んだら、
必ず“次にどこへ出るか”を決めておけ。
足が止まれば、
槍も止まる」
「は、はい!」
兵たちの額に汗がにじむ。
列の端で、それを見ていた敦は、
思わず小さく拍手した。
「さすがだなあ、雲長兄。
俺が言葉で説明するより、
ずっと分かりやすいですよ」
「敦が考えた“動く壁”だ」
関羽は振り向かずに言った。
「俺は形を見せているだけだ」
「その“形を見せる”のが難しいんですよ」
敦は苦笑しつつも、
兵たちの足の運び方に目を凝らした。
(中心がぶれていない。
列の真ん中の者が、
ちゃんと重心を意識している)
現代で身に付けた合気道の稽古の記憶が、
頭の中でよみがえる。
相手の力を受けて、
半歩ずらし、半歩返す。
人と人の動き方を、
今は列と列の動き方に置き換えているだけだ。
「敦!」
広場の向こうから、
張飛の声が飛んだ。
「こっちは“殴り合い”の稽古、どうする!」
振り向けば、
少し離れた場所で、
木剣や棍を持った兵たちが集められていた。
「壁の中の“穴”に飛び込んできた敵を、
どう叩き出すかってやつだ!」
「了解です、翼徳兄!」
敦は、兵の列の方を関羽に託し、
張飛の元へ駆けていった。
* * *
張飛の周りには、
槍ではなく棍や木剣を持った兵たちが集まっていた。
「ようやく来たか、敦」
張飛は、棍を肩に担ぎながら言う。
「お前の“半歩下がるだのなんだの”ってやつ、
壁の中に入り込んできた連中には通用しねえだろ」
「そこで、翼徳兄の出番です」
敦は笑った。
「壁の中に飛び込んできた敵は、
“勢いが余った”状態です。
そこをつかんで、
ひっくり返して外へ投げるのが一番いい」
「どうやる」
「まずは、
“自分から殴りにいかない”ことですね」
「は?」
張飛の顔に、“なんだそれ”という色が浮かんだ。
「飛び込んでくる相手は、
自分から“倒れに来ている”ようなものです。
こっちが余計な力を出すと、
ぶつかってお互いにこける」
敦は、棍を一本借りて構えた。
「例えば、こうやって飛び込んでくるとします」
兵の一人に、
大げさに棍を振りかざしながら突っ込ませる。
敦は、それを真正面から受けずに、
半歩だけ横へずれ、
相手の手首と肘を軽くつかんで引いた。
勢いを殺された兵は、
そのまま前のめりに転がる。
「今のを、槍の列の“裏側”でやるんです」
敦は、地面に転がった兵に手を貸しながら説明した。
「壁の中に飛び込んできた敵がいれば、
列から一人だけ抜けて、
相手の勢いを半歩ずらして、転がす。
倒したら、
すぐに列に戻る」
「そんな器用なことが、
みんなにできるかよ」
張飛は眉をひそめながらも、
興味は隠しきれていない。
「だから、
“全部やれ”とは言いません。
ここでは、
“それができそうな奴”を見つけたいんです。
足が軽くて、
体の軸がぶれない奴を」
「なるほどな」
張飛は、周りの兵たちをぐるりと見回した。
「お前ら、聞いたな!
“突っ込んできた奴を転がす役目”は、
俺が選ぶ!
選ばれた奴は、
槍だけじゃなく“殴り合い”も覚えろ!」
兵たちの顔に、緊張と期待が走る。
敦は、その様子を見ながら心の中で数えた。
(兵の錬度。
これで一つ目の杭――“兵”は、
少しずつ太くなっていく)
* * *
二つ目の杭は、
広間の帳簿の上にあった。
「司馬殿」
梁が、書付を並べながら言う。
「こうしてみると、
今まで“倉に眠らせていた”米の多さに驚きますな」
広間の床には、米の出入りを記した札が並べられている。
村ごとの倉。
役所の倉。
兵糧として回した分。
それを線でつなぎ、
月ごとの動きを見えるようにしていた。
「今までは、“役所に入れたら仕事は終わり”でしたから」
敦は苦笑した。
「これからは、“役所に入ってからが仕事の始まり”です。
ここから、
どの村へどれだけ戻し、
どの村からどれだけ預かるか」
趙寧が、札を見比べながら首をかしげた。
「しかし、
一度村から預かった米を、
また村へ戻すというのは……」
「“共に戦う”という形にしたいんです」
敦は紙に線を引いた。
「今までは、
村ごとに『自分の倉』と『役所の倉』が別でした。
これからは、
“安喜の倉”を一つの大きな倉と見なして、
必要な時に、
必要な場所へ米を動かす」
「しかし、
村の者たちは“取られる”ことを恐れますぞ」
「だからこそ、
“いつ、どれだけ戻るか”も見えるようにするんです」
敦は、札の上に新しい紙を重ねた。
「この紙には、
“借り”と“返し”を書いておきます。
“この村から、いつどれだけ預かったか”だけでなく、
“この村へ、いつどれだけ戻したか”も」
梁が、感心したように息を吐く。
「借りと返し……“貸し借りの秤”ですな」
「はい。
兵糧を、
“取られるもの”から“預け合うもの”に変えたい」
敦は、
安喜全体を一つの秤として見ていた。
重い方を軽くし、
軽い方に少し重りを乗せる。
それを繰り返して、
全体の傾きを少しずつ直していく。
(これが二つ目の杭――“兵糧”)
* * *
三つ目の杭は、
夜の酒と共に安喜中に広がり始めていた。
「でな、その狭い通路ってのが――」
村の一つ、
小さな酒家の隅。
北辺帰りの兵の一人が、
身振り手振りを交えて話している。
「本当に人ひとりやっと通れるくらいでよ。
そこで“半歩引いて半歩出る”ってやつを、
雲長兄……いや、関羽さまが号令かけるたびに、
みんなでやるんだ」
「うちの村から出て行ったあいつが、
そんなことを……」
聞き手の男が、
信じがたいものを見る目で兵を見つめる。
「それに、
白馬の将軍ってのがいてな」
兵は、酒を一口あおって続けた。
「公孫瓚さまってんだが、
あの人の馬の動きはすごかったぞ。
正面でどれだけ賊が騒いでようが、
横から一気に噛みついて、
黒い旗を叩き折るんだ」
「ほんとかよ」
「俺も最初は信じられなかったさ。
でもよ、
“白馬の横に立ってた”って言うと、
みんなの目が変わるんだ」
兵は、少し照れくさそうに笑った。
「だから今度は、
安喜の連中の目を変えてやりたいと思ってな」
別の村では、
また別の話が語られていた。
「“白馬の横で戦った”ってことはよ」
別の兵が言う。
「“安喜からでも、そこへ行ける”ってことだ」
「俺らでもか」
「槍をちゃんと握って、
列を崩さねえで動けるようになれば、だ」
敦は、そうした話が
夜ごと村々で交わされているという報告を、
少し離れた場所から聞いていた。
兵たちには、
「あったことをそのまま話してくれ」としか言っていない。
それでも、
白馬の旗と狭い通路の話は、
酒と一緒に安喜中に流れ始めていた。
(三つ目の杭――“話”。
これが、
“外とつながっている”という実感になる)
* * *
そうして、
安喜の日々は流れていった。
兵の稽古。
兵糧の秤。
夜の話。
季節が一つ、また一つと過ぎるうちに、
安喜は少しずつ形を変えていった。
ある日。
広間に、一通の書状が届いた。
「幽州の役所からだ」
梁が封を切る。
劉備、関羽、張飛、敦が揃っている前で、
書状の文が読み上げられた。
「『黄巾の残党、
なお青州・冀州の境にて散発的に騒ぐ。
幽州においては、公孫瓚伯珪をもってこれに当たらしむ。
冀・幽の間の諸県は、
各々、兵と兵糧を整え、
いざという時には速やかに兵を出せるよう備えよ』」
敦は、心の中で静かにうなずいた。
(来た)
半年という約束の猶予は、
まだきっちりとは過ぎてはいない。
だが、
北辺の情勢はそれを待ってはくれないようだ。
「長兄」
敦は、劉備を見る。
「どうしますか」
劉備は、書状を受け取り、
しばらく無言で文面を眺めた。
やがて、口を開く。
「幽州の役所は、
『兵と兵糧を整えろ』と言っているだけだ」
「はい」
「『すぐに兵を出せ』とは書いていない」
「そうですね」
「ならば――」
劉備は、静かに笑った。
「今の安喜が、
どこまで“整えられているか”を、
俺たち自身で確かめるいい機会だ」
敦は、思わず目を見開いた。
「つまり……」
「兵の数。
北辺帰りの者を核とした槍の列。
村ごとの兵糧の預け合い。
それらを改めて数え直し、
『今、安喜が動かせる兵はどれだけか』をはっきりさせる」
劉備は、
安喜の地図と帳簿を視線の先に置いた。
「伯珪との約束は半年だったが、
戦の火種がこちらへ飛んでくるなら、
俺たちの方から“先に杭を打ち込む”こともできる」
張飛が、にやりと笑う。
「長兄、
つまりまた暴れに行けるってことだな」
「翼徳」
関羽が静かに制した。
「暴れに行くだけではない。
今度は、“安喜から兵を出し、
また戻す”という形を作らねばならぬ」
敦は、二人の言葉を聞きながら、
心の中で策の輪郭を描き始めていた。
(次は、
“安喜発・安喜帰り”の戦だ。
出て、戦い、戻る。
それを一つの型として、この地に刻みたい)
劉備が、敦へ視線を向ける。
「敦」
「はい、長兄」
「兵と兵糧と話――
この三つの杭が、
今どれだけ太くなっているか。
確かめる策を考えてくれ」
敦は、深く頷いた。
「承知しました。
次の戦は、
“安喜がどれだけ変わったか”を示す戦にしましょう」
* * *
こうして、
北辺帰りの安喜は、
再び外へ向けて杭を打ち込む準備を始めた。
冀・幽の境で交わされた約束と、
安喜の土の上で育った三つの杭。
それらが、
次にどのような戦と出会うのか――
それは、もうそう遠くない日の話だった。
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