第10話

地獄の「ヤニカス人体実験」が始まった。

​配信タイトルは『【人体実験Day1】底辺の極致!最低級タバコは魂と負債にどう影響するか?』。

​レイの指示通り、俺の体には心拍数と血圧を測るセンサーが装着されている。そのデータが、配信画面の隅に常に表示されていた。

​『師匠。本日の実験プロトコルは、底辺維持基金で調達した「市場で最も安価なタバコ」の摂取です。このタバコは、コストパフォーマンスが最低で、健康被害のリスクが最も高い。底辺哲学の「非効率なリスク」を最大限に引き出す最適な変数です』

​レイの声は、いつにも増して冷徹な機械のようだった。可憐は、最低級タバコのパッケージを「底辺の象徴」と呼び、優雅に俺に差し出した。

​『師匠。これが、あなたの「生きてる痛み」を最も強く感じさせてくれる、究極のエレガンス・ブースターッス! 心して味わうッス!』

​「……チッ。やってやるよ」

​俺は、最低級タバコに火をつけた。その煙は喉に強く引っかかり、肺の奥を鋭く焼いた。いつもの安物タバコよりもさらに味が悪く、頭がクラクラする。

​2. データが示す自滅の領域

​一口、二口と吸うにつれて、俺の体は悲鳴を上げ始めた。しかし、その肉体的な苦痛こそが、俺の哲学を刺激した。

​「レイ、見てみろ。このタバコは、まずい。まずいからこそ、『俺がこんなクソまずいものを吸っている』という、究極の自己嫌悪と罪悪感を与えてくれる。これが、俺が愛する『喪失の香り』なんだ」

​『師匠、発言のER(感情移入率)は高値安定しています。しかし、心拍数が危険域に上昇しました。これは、ニコチンと自己嫌悪による精神的な過負荷を示しています』

​「過負荷でいいんだよ! 俺の人生は、延々と続くだるいインスタント食品じゃねぇ。一瞬で燃え尽きる『短い花火』だ!」

​その瞬間、可憐が悲鳴を上げた。

​『師匠! ダメッス! その哲学は、既に「自滅の領域(Doomed Zone)」に突入していますッス!』

​レイのタブレットが警告音を鳴らす。

​『師匠、データが異常値を示しています! 現在の摂取を継続すると、配信中に健康被害が発生する可能性が**87%**です。実験プロトコルに違反し、即座に中止すべきです』

​「中止するわけねぇだろ。これは、ライバルに『弱さの美化』だと煽られた、俺の尊厳を懸けた実験だ!」

​俺は、意地になってタバコを深く吸い込む。しかし、体が限界だった。視界がグラつき、マイクに咳き込む音が入った。

​3. 愛のバグ:可憐の反逆

​レイは冷静だった。彼は、師匠の健康よりも「底辺哲学の研究」という大義名分を優先した。

​『師匠。人体実験のデータは、あなたの哲学を「歴史的なコンテンツ」として昇華させるために不可欠です。健康リスクは承知の上で、続行します。可憐、師匠の発言を記録し続けろ』

​その言葉に、可憐の純粋な愛が、ついにレイの「論理」という絶対的な壁を打ち破った。

​可憐は、優雅なアバターのまま、激しく首を横に振った。

​『違いますッス! レイさん、それは違うッス!』

​可憐は、優雅なフリルを翻し、レイのアバターの前に立ちはだかった。

​『師匠の命は、データじゃないッス! 師匠の孤独を癒すための愛のブースターは、師匠を殺すための毒じゃないッス!』

​可憐は、感情を爆発させた。その声は、これまでの優雅な「~ッス」口調からは想像できないほどの、悲痛な響きだった。

​『師匠の哲学は、「誰にも邪魔されない、静かに一人でいる時間」を求めることッス! この人体実験は、師匠の孤独をデータという名の無数の視線で汚染している! これ以上、師匠の「聖域」を穢すのはダメッス!』

​可憐は、俺の画面に映るタバコの煙を、優雅な手で払いのける仕草をした。その瞬間、可憐のER(感情移入率)は、レイの計測史上、「計測不能」を記録した。

​4. 檻からの強制連行

​可憐の絶叫にも似た感情の爆発は、レイの論理を完全にフリーズさせた。

​『花咲様。あなたの発言は、実験プロトコルの致命的なバグです。データ、データが…!』

​その混乱の中、配信画面に、ついに事務所のマネージャー、橘真琴のアイコンが強行介入した。

​『榊! もうやめろ! 俺の胃は限界だ! お前はもう、コンテンツの維持じゃなくて、命の維持が必要なんだ!』

​橘は、躊躇なく配信のストリームを強制的に遮断した。画面は、一瞬で「通信が切断されました」という無機質な表示に変わった。

​俺は、息を吸うことすらできず、ローテーブルに突っ伏した。目の前でタバコが燃えている。

​朦朧とする意識の中で、聞こえたのは、通話越しでレイが必死に「実験結果の喪失リスク」を嘆く声と、可憐が「師匠の命の方がエレガンスッス!」と泣き叫ぶ声だった。

​俺の底辺哲学は、愛と論理の衝突によって「バグ」を生み出し、そして強制終了させられた。命の炎が燃え尽きる寸前に、弟子たちの愛が、俺を「聖域」から引きずり出したのだ。

​俺は、檻の中にいた。しかし、その檻の扉は、弟子たちの愛という名のバグによって、無理矢理こじ開けられたのだった。

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