第04話 大きな跳躍
カンファレンス会場の一階にあるカフェテリアは、壁一面が巨大なガラス張りになっており、傾きかけた午後の日差しがふんだんに降り注いでいた。
そこかしこのテーブルで、ネームカードを首から下げた研究者たちが談笑している。冷めていくコーヒー、数式が殴り書きされたペーパーナプキン、飛び交う
澪は入り口で足を止め、逸る鼓動を抑えながら視線を巡らせた。
……いた。
窓際の席に、那奈内マツリは座っていた。周囲の喧騒から切り取られたように、彼女の周りだけ空気が透き通って見える。テーブルの上には手付かずのカフェラテ。彼女は窓の外の街路樹を眺めていたが、澪の気配に気づくと、小さく手を振って微笑んだ。
澪は小走りに近づき、椅子を引くのももどかしく身を乗り出した。
「お待たせしました! 先ほどの、具体的な次善策をお話しさせていただきたくて!」
挨拶もそこそこに、澪は本題を切り出した。ポスターの前での興奮がまだ冷めていない。いや、さらに加熱している。
「マツリさんなら、具体的にどこを削って、どこを残しますか? あなたの
澪の直球すぎる問いかけに、マツリは目を瞬かせ、それから小首を傾げると、コーヒーソーサーの縁を指でなぞった。
「そうですね……澪さんの悩みは、ペンローズ博士とハメロフ博士が提唱した『量子脳理論』にも近い難題ですよね。複数の可能性を同時に持ち続ける量子の性質。それが高温かつ高ノイズ下で維持されるというのは、脳の処理モデルが参考になるかも……って、すいません。いきなり私の発言のほうが、よほど
マツリは悪戯が見つかった子供のように小さく舌を出したが、澪の脳内では、その言葉が導火線となって爆発的な連鎖反応を起こしていた。
「『Orch-OR理論』!」
澪は思わず声を張り上げてしまい、周囲の視線を集めたのに気付きつつも、構わずに続けた。
「脳内の神経細胞にある微小管が、体温という高温湿潤な環境下でも量子状態を維持し、意識を生み出しているという仮説……。確かに、私のQNNが直面している『ノイズとの戦い』と、構造的に同型です!」
澪は自分のこめかみを指先でトントンと叩いた。思考が加速する。
「通常の量子コンピュータは、絶対零度近くまで冷やさないと壊れてしまいます。でも、もし……もしですよ? 生物が『ノイズを遮断する』のではなく、植物の光合成における量子歩行みたいに、『ノイズをあえて利用して効率化する』メカニズムを持っていたとしたら? 私がやりたいのは、まさにそれなんです!」
例えば、迷路の中で出口を探す時、ただ闇雲に走るのではなく、壁にぶつかる
「ええ、わかります。実は私、『意識のモデル』に興味がありまして」
マツリは静かに頷いた。その瞳の奥にある翠の色が、深く光を湛える。
「でも、結局のところ、脳の量子効果が物理的に本当にあるのかどうかは、ひとまず置いておきましょう。私が提案したいのは、『処理の量子性』を基礎に置くことです。倫理の要素に座標を与えた『意味空間』を用意して、その分布と発展をマスター方程式で記述すれば、次善策の近似に使えるかもって」
澪は息を呑んだ。
(この連想の精度……物質的な量子の挙動を棚上げして、情報処理のルールとして量子力学を借用する。私のQNNが突然現実味を帯びてきた)
それは、澪がずっと霧の中で手探りしていたパズルの、鍵となるピースを差し出されたような感覚だった。
「脳の物理的な議論を一旦
澪は急いでテーブルの上にペーパーを広げると、ボールペンを走らせた。
「私のQNNの量子層を、古典的な確率論ではなく、この『意味空間』での確率分布を表す密度行列 ρ で置き換えれば、実装コストが劇的に下がります。さらに『非単位進化』……つまりエネルギーの出入りがある開放系のシステムとして記述すれば、倫理的な『忘却』や『学習』まで自然にシミュレートできるかもしれない……!」
ペン先が紙を擦る音が、心地よいリズムを刻む。数式が踊る。
澪は顔を上げ、マツリの瞳を覗き込んだ。
「その『意味空間』の具体的な座標系、マツリさんならどう定義します? 縦軸と横軸に何を置けば、倫理を記述できますか?」
マツリは澪と、書き出された数式の両方を興味津々といった様子で見つめていた。
「そうですね……第一の軸、公正軸は、カント哲学でいう『黄金律』でしょうか。『自分がされたくないことは他人にもしない』という、主体と客体を入れ替えても同じルールに従う対称性です」
マツリの人差し指が、空中に一本の線を引く。
「第二の発展軸は、シュレディンガーが生命の本質と呼んだ『ネゲントロピー創出』。つまり、混沌へ向かう熱力学の法則に逆らって、秩序を生み出す力。そして第三の時間軸として、それらの『持続可能性評価』。そんな三軸はどうでしょうか?」
そして彼女の指先が、空中を上下・左右・前後へと優雅に動き、見えない立方体を描き出した。
「もっと複雑な多次元も考えられますが、まず
澪の手が止まった。
黄金律。他者への共感。
ネゲントロピー。秩序を生もうとする意思。
持続可能性。未来への責任。
澪は呆然と、書き綴ったばかりの数式を見つめた。ただの冷たい記号の羅列だったものが、体温を持ち始めたように見えた。
「『黄金律』『ネゲントロピー』『持続可能性』。これらを数式の骨格に組み込んだら……」
彼女はゆっくりと、その導き出される結果を口にした。
「これ、まるでAIが『悩んだり迷ったりしながら前に進む』モデルじゃないですか! ……ふふ、なんだかすごく、人間臭いですね」
完全無欠な”審判者”を目指していたはずなのに、そこには”悩み”や”迷い”という人間特有の機能が、最も効率的な最適化手法として組み込まれていた。
悩みとは、無駄な足踏みではない。複数の正義の間で揺れ動くことで、より高次の答えを探すための”計算プロセス”だったのだ。
それは矛盾しているようで、震えるほど美しい結論だった。
「お願いです。もしよかったら、この後をもう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
澪の懇願に、マツリの目が楽しそうに笑った。
「『迷い悩むAI』。まさに、何でも即答しようとする現代のAIの、過剰な確信に対するアンチテーゼにもなりそうですね」
そしてマツリは立ち上がり、ジャケットの裾を直すと、澪に手を差し伸べるように微笑んだ。
「では、ブラッシュアップの相談、よろしければ夕食でもご一緒しながらではいかがですか? 良いお店を知っているんです」
「ええ、ぜひ! どこまでもついて行きます!」
澪も弾かれたように立ち上がった。
二人はカフェを後にする。
自動ドアが開くと、外気と共に夕暮れの街の匂いが流れ込んできた。
澪の隣を歩くマツリのループタイが、街灯の明かりを受けて、微かに彼女の胸元で跳ねるのが見えた。
それは、これから始まる長い夜と、もっと長い物語の道標だった。
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