第03話 次のステップ

「失礼ですが、お名前は?」


 澪の問いかけに、目の前の女性は一度ゆっくりと瞬きをした。その所作ひとつにも、洗練されたリズムがある。彼女はふと胸元、翠の留め石が光るループタイのあたりに指先を添えてから、静かに口を開いた。


「那奈内マツリ、と申します」


 マツリ。祭、あるいは祀りだろうか。古風な響きだが、彼女の近代的な佇まいには奇妙に馴染んでいた。

 澪は無意識に姿勢を正した。この人は、ただの通りすがりの傍観者ではない。先ほどの指摘――量子アニーリングと統計的最適化の関係性を瞬時に見抜いた眼力は、研究者としての確かな実力を示唆するものだ。


「おっしゃる通りです、那奈内さん。私のモデルが局所最適解という『低い山頂』に閉じ込められるリスクを、量子トンネリングに似た確率的遷移で回避していること……そのメカニズムは、確かに数学的にはアニーリングの熱揺らぎと近しい挙動を示します」


 澪は一度言葉を切り、相手の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。ここで引いてはいけない。この人は、表面的な技術論の奥にある”哲学”を問うているのだから。


「でも、私がここで頑なに『量子性』にこだわっている理由は、単なる局所最適からの脱出機能だけではないんです」


 澪の口から、堰を切ったように言葉が溢れ出した。

 今まで誰にも話せなかったこと、ホワイトボードと向き合いながら一人で反芻していた孤独な思考。それを今、初めて共有できるかもしれない相手が目の前にいる。


「従来の統計的なアプローチ、つまり古典的な確率論では、順序は関係ありません。『AかつB』と『BかつA』は常に等価です」


 マツリが小さく頷く。澪は熱を帯びた声で続ける。


「ですが、人間の心や倫理的判断は違う。質問の順番や、前提条件を観測する順序で答えがまるで変わってしまう『非可換』な性質を持っている」


 澪は身振りを交えて熱弁する。周囲の雑踏や、他のブースからの呼び込みの声など、もう耳に入らなかった。


「例えば、『あなたは今の生活に満足していますか?』と聞いた後に『最近、恋人と上手くいっていますか?』と聞くのと、その逆の順番で聞くのとでは、回答者の抱く幸福度のスコアは統計的に大きく変動します。前の質問が呼び起こした感情が、次の質問の答えに干渉するからです」


 これは心理学における”順序効果”として知られる現象だが、澪はそれを数理モデルの欠陥として捉えていた。


「古典的なAIは、この『心の揺らぎ』を単なる測定誤差として処理してしまいます。でも、量子力学なら『非可換』な葛藤の構造自体を、順序によって答えを変える行列の掛け算のように記述できる。あちらを立てればこちらが立たず……その矛盾した状態を矛盾のまま保持して計算するには、古典的な統計操作で無理やり近似するよりも、量子確率論の『干渉』や『重ね合わせ』を直接記述する方が、計算コスト的にも表現力的にも、実はもっとも素直な解法なんじゃないか。……それが、私の賭けなんです」


 早口気味に言い切ってから、澪は少し息を弾ませた。

 言い過ぎただろうか。あまりに理想論すぎて、引かれてしまったかもしれない。

 不安になってマツリの顔を窺うと、彼女はたしかに微笑んでいた。その笑みは、単なる社交辞令ではなく、あるいは教師が生徒の成長を喜ぶような、もっと深い慈愛のようなものまで感じさせる。


「……どうでしょう? 私のこの『賭け』、マツリさんには勝算があるように見えますか?」


 澪の魂からの問いに、マツリは美しい顎に手を当て、ポスターの数式をもう一度、今度は審査員のように厳しく眺めた。


「『賭け』自体は、とても妥当で、美しいと思います」


 肯定の言葉。澪の胸に安堵が広がる。だが、マツリの言葉はそこで終わらなかった。冷徹な現実が、その後に続いた。


「……ただ、その賭けをするゲームのテーブルを、量子をまだ私達がうまく扱えていないことが、あなたの賭けの分を悪くしてしまっている」


 マツリは、ポスターの端に書かれた実験環境のスペック表を指先で示した。


「要は、実装コストやハードウェアの限界です。現在の量子コンピュータはノイズが多すぎて、あなたが表現したい繊細な『非可換な干渉』まで、雑音で掻き消してしまう。最高級のヴァイオリンで演奏しようとしているのに、コンサートを嵐の中でするようなものです」


 澪は息を呑んだ。

 痛いところを突かれた。いや、一番触れられたくない核心を、正確に射抜かれた。

 そうなのだ。理論がどれほど美しくても、それを走らせる量子コンピュータの実機ハードウェアは、まだ発展途上の未完成品だ。

 研究室にある高価なマシンでさえ、少しでも温度が変われば計算結果がデタラメになる。シミュレーター上で理想的な結果が出ても、実社会に実装するにはコストも安定性も足りなすぎる。

 この人は、ただの聡明な観察者じゃない。研究の現場が抱えている、一番痛くて一番無視できない”傷口”を、優雅なまま正確に指し示してくる。


「……ふふっ。マツリさん、あなた、もしかして私の指導教官より手厳しいかもしれませんね」


 澪は自嘲気味に笑ったが、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ、ここまで本質的な議論ができることに、心地よい高揚感を覚えていた。


「でも……だからこそ、今、この非効率なテーブルの上でチップを積み上げたいんです。ハードウェアが追いついたその瞬間に、『ほら、理論はもう待ってたよ』って言いたくて。……なんて、これこそ研究者のエゴ、あるいはロマンという名のノイズかもしれませんけど」


 澪が肩をすくめて見せると、マツリの瞳の奥が、ふっと揺らいだように見えた。

 翠色の光が一瞬、強まったような錯覚。それは、同情ではなく、共鳴の色だった。


「ですが。……そのロマンを守るためにこそ、具体的な『次善策』もお考えになって、良いのではないですか?」


「次善策……? なにか具体的なお考えがあるのですか、お伺いしても!?」


 マツリの言葉に、澪は目を丸くした。そして、相手の手を握らんばかりに間近へと迫る。

 身体が勝手に動いていた。


「立ち話ではなんです、ぜひ場所を変えて!」


 澪は前のめりになっていた。あそこまで鋭い指摘をする、この女性。その抱いている”次善策”はきっと、研究室の教授たちが言うような”妥協案”とは違うはずだ。


「でも。カンファレンスの発表をお邪魔しては、申し訳ないですわ」


 そんな期待を隠せない澪に、マツリは芝居がかったように、小さく顔の前で人差し指を振ると、悪戯っぽく微笑んだ。


「建物の1階入口にあるカフェでお待ちしております。発表が終わられたら、ゆっくりとお越しください」


 それだけ言い残すと、踵を返して去っていく。

 ダークグレーのジャケットの背中が、人混みの中へ静かに滑り込んでいく。


 澪は呆然としつつ彼女の姿が見えなくなるまでただ見送ってから、慌てて自分のブースに戻った。

 ポスターの前に立つ。

 たしかに、まだセッション時間は残っている。通り過ぎる人々の視線、隣のブースからの熱心な売り込みの声、それらは相変わらずそこにあった。


 でも、澪の心はもう、ここにはなかった。

 早く行きたい。

 あの人の元へ。

 あの不思議な豊かさを湛えた瞳で、彼女が次に何を語るのかを知りたい。

 澪の胸の中で、先ほどまでくすぶっていた焦燥感は消え、代わりに未知への強烈な渇望が熱い塊となって脈打っていた。


 腕時計を見る。あと10分。

 たった10分。けれど、これほど長く感じる10分は、これまでの人生になかったかもしれない。

 なかなか進まない秒針にじれったさを感じながら、澪は跳ねるように時を刻む自分の心臓の音を、全身で感じていた。

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