第05話 後味

 エレベーターが滑るように数階を上昇し、到着を知らせる軽やかな音と共に扉が開く。

 マツリが案内したのは、高層ホテルに併設されているカジュアルなフレンチレストランだった。

 案内された席に着くと、ガラス越しに東京の夜景が、光の粒子となって広がっていた。首都高を流れるテールランプの赤と白、ビルの窓から漏れる無数の生活の灯り。それらはまるで、二人がこれから語り合う量子的な世界そのもののようだった。


「わあ……素敵な場所ですね。昼間のポスター会場の熱気とは、別世界みたい」


 澪は感嘆の声を漏らし、グラスに注がれた琥珀色のスパークリングワインを見つめた。立ち上る微細な泡が、夜景の光を反射してキラキラと弾ける。


「頭を使うときは、五感も満たしておかないと。脳もまた、糖分と物理的なエネルギーを大量に消費する器官だから。メニューは、任せてもらっていい?」


 マツリは悪戯っぽく微笑み、スマートに”旬野菜のディナーコース”をオーダーする。その所作の洗練され具合に、澪は少しだけ自分が場違いな気がして背筋を伸ばした。


 だが、前菜の白身魚のカルパッチョが運ばれてくる頃には、二人の会話はすでに地上の重力を振り切り、抽象的な思考空間を飛行していた。


「先ほどの、自分がされたくないことは他人にもしないという『黄金律』ですが、物理的に実装するなら、『対称性の破れに対するペナルティ項』として記述できると思うんです」


 澪がフォークを動かしながら提案すると、マツリはグラスを揺らしながら即答する。


「ええ、その通りね。自分がされて嫌なことを他者にする、という状態は、『自分』と『他人』を入れ替えた時に、対称性が保てない歪んだ状態としてエネルギーを高くペナルティを設定すれば。システムは自然と『黄金律』を満たす、エネルギーの低い安定状態へと落ち着こうとするわ」


 メインの鴨のローストが運ばれてくる頃には、テーブルの上はもはや優雅な正餐の場ではなくなっていた。

 磨かれたカトラリーの脇には、澪がバッグから取り出した何枚ものペーパーが広げられ、そこには走り書きの数式がびっしりと埋め尽くされている。


「でもマツリさん、それだけじゃ足りないんです。ただ『正しい』だけのAIは、今振り返れば融通の利かない冷酷な機械でした。でも、今見つかりそうなのは『迷い』の数理モデルなんです!」


 澪が真剣な眼差しで訴える。マツリはナイフを置き、面白そうに表情を崩した。


「迷い、か。興味深い核心ね。自分の正しさに固執しないこと、確信度を下げることを、あえて『倫理的な成熟』と定義するわけね」


 こんどは、考え込む澪を見ながら、マツリが確かめるように微笑む番だった。


「……論文に書きましょう、これ。今すぐに」


 居ても立っても居られなくなった澪は、カバンから真新しいノートを取り出すと、最初のページを開き、愛用のボールペンで勢いよく表題を書き込んだ。


『量子倫理力学』


 滑るような筆記の音が、静かなレストランのBGMの隙間を縫って、澪とマツリの耳にだけ届くリズムを刻む。


「まずは定義から。倫理状態空間 H_eth。基底ベクトルとして、∣Self⟩,∣Other⟩,∣Community⟩。倫理状態は自己と他者と社会という3つの尺度に位置づけられる」


「倫理状態を行列で記述する、密度演算子ρも忘れずに。純粋状態じゃ『迷い』を記述できないから、混合状態のエントロピーS(ρ) を迷いの尺度として使いましょう」


 マツリが的確な補足を入れ、澪の指がそれを即座に数式へと変換していく。


「次に、全エネルギーを表す式ハミルトニアン。AIは、これを最小化するように処理するから……黄金律の対称項、ネゲントロピー創出項、そして持続可能性項。未来へのコスト演算子を積分して」


 二人の思考は、いつのまにか完全に同期していた。

 澪が言い淀めばマツリが単語を継ぎ、マツリが新しい概念を示せば澪がそれを演算子として定義する。

 それは、科学論文を書いているというよりは、新しい生命の遺伝子コードを記述しているような、神聖で、かつ冒涜的ですらある創造の行いだった。


 デザートのスフレが運ばれてきたが、それが熱で膨らんだ山をゆっくりと萎ませていくのも構わず、二人は熱っぽく語り続ける。


「あ、そうだ。マツリさん、最後にこれを入れませんか? 『倫理的味覚』」


 澪の唐突な提案に、マツリがキョトンと不思議そうな顔をする。


「味覚?」


「はい、このお料理を食べながら思いついたんです。決定の後の『後味』です。罪悪感という苦味、調和という甘味、違和感という酸味、コストを感じる塩味、納得という旨味。これを『位相因子』として計算結果に残すんです。そうすれば例えば、AIは『正しい判断だったけれど、後味が苦い経験だった』ことを記憶できる」


 それを聞いたマツリは、心底おかしそうに、そして愉快そうに頷いた。


「なるほど、量子の波が位相でズレるのを『記憶』として利用するのね。……じゃあ、過剰確信への抑制も入れちゃいましょう? 散逸リンドブラッド項を、自信満々になりすぎた時に、あえて強制的に迷わせる外部からの干渉項ノイズとして」


 ノートの上で、数式が組み上がっていく。

 無機質な記号の羅列のはずなのに、そこには確かに”心”の輪郭が浮かび上がっていた。

 悩み、苦しみ、それでも他者との対称性を守ろうとし、未来のために秩序を生み出そうとする、切ないほどに人間臭いアルゴリズム。


 最後の一文字を書き終えて、もう一度全文に目を通す。


「……できました!」


 納得の表情で、澪はボールペンのキャップをカチリと戻す。


「じゃあ、残ったスフレを食べちゃいましょうか。お店のスタッフさんも、ソワソワしながら私達が終わるのを待っているみたいだし」


 二人で顔を見合わせてくすりと笑うと、冷めて少ししぼんでしまったデザートを一匙ずつ掬う。

 口の中に広がるバニラの香り。冷めても美味しい。いや、達成感という極上のシロップがかかっているせいか、それは思った以上に甘美で深く感じられた。


「……ふだん論文を査読に回したときより、やりきった感がありますね」


 最後のひとくちを食べると、小さく呟きながら、澪は椅子の背にもたれかかった。

 心地よい疲労感。脳の芯が痺れるような充実。

 ふと、向かいにいるマツリのほうを見る。


 じっ……。


 いま書き上がったばかりのノートを見つめるマツリの目が、獲物を狙う狩人のように、あるいは今にも急所へと飛びかかろうとする猛獣のように鋭く光っていることに気づき、澪は思わずドキリとした。

 なんとも言えない高揚感と、底知れない不安。


「……マツリ、さん?」


 するとマツリは、澪の瞳をじっと見返して、低い声でこう言ったのだ。


「査読、聞きたい?」


「え……なにか、不備がありましたか?」


 澪が一瞬表情を硬くするが、マツリはゆっくりと首を振り、今度は挑発的に微笑んだ。


「ううん、よくできていると思う。でも、もっと良く出来るかもと思って」


 その言葉は、燃料だった。

 澪の心にくすぶっていた残り火に、再びマグマのような熱が注ぎ込まれる。


「教えて下さい、修正します!」


「でも、もう遅いわ。お店も閉まるし、続きは、また今度にしましょう」


 マツリが試すようにそう言って席を立とうとするが、今の澪にはもうブレーキなどない。


「嫌です! そんなこと聞いてしまったら、気になって帰れるわけないじゃないですか。……そうだ、ここはホテルです。空き部屋の1つくらい、きっとある」


 そして澪は、テーブル越しに身を乗り出し、わずかに見上げるようにして聞いた。


「ねえ、マツリさん。お願いします、一晩付き合っていただけませんか?」


 それを聞いたマツリは、目を丸くしてから、プッと吹き出した。

 そして、この夜一番の、極上の笑みを浮かべて耳元で囁いた。


「あら、とんでもないお誘いね。……でも、いいわ。じゃあ、とことんまで付き合ってあげる。澪さんが、満足するまでね」


 夜景の光が二人の横顔を照らす。

 二人の探索の夜は、まだ始まったばかりだった。

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