第02話 運命のホップ
カンファレンス当日。国際会議場の巨大なホールは、特有の熱気と倦怠が混ざり合った匂いがした。フロアの硬質な冷たさ、プロジェクターの排熱、そして数千人の人間が吐き出す二酸化炭素と野心。
霧島澪は、指定されたブース”K-30”の前に立ち尽くしていた。
背後には、徹夜で仕上げたA0サイズのポスターが貼られている。中央には、彼女が誇りとする”
だが、通路を行き交う人々の視線は、そのアートの上を滑るように通り過ぎていく。
「……結局、誰も中身なんて見てない」
澪は手元のパンフレットを強く握りしめた。
開始から2時間。彼女のブースに足を止めたのは、数えるほどしかいなかった。それも全て、”量子”というバズワードに釣られただけの企業スカウトか、自身の知識をひけらかしたいだけの年配の研究者だった。
「この指標の計算コストをまともに検討したのか? リアルタイム推論なんて夢物語だ」
「量子ノイズのシミュレーションは実機データに基づいているのかね? 理想的なガウシアンノイズだけじゃ、実社会の泥臭いバイアスは消せないよ」
彼らが投げるのは、石礫のような”現実”だった。
澪が本当に伝えたかったこと――倫理を数理的な”調和”として捉え直し、人間が逃れられない主観から解放された審判システムを作るという思想――には、誰も触れようとしない。彼らにとって重要なのは、実装コストと、既存のベンチマークスコアを何パーセント上回ったかだけだ。
澪は喉が渇いていたが、水を飲む気力もなかった。
自分の声が、空っぽのホールに吸い込まれていくような感覚。あんなに熱情を持って組み上げたアルゴリズムが、ここではただの”効率の悪い計算式”として解体されていく。
「やあ、澪君。盛況だね」
粘り気のある声が、澪の思考を遮った。振り返ると、見たくない顔があった。研究所のパトロン、権田原氏だ。
あの着ているスーツは、アルマーニだったか。先日それとなくと言うにはずいぶん露骨に自慢されたものだが、そのベルトの上には膨らんだ腹部が乗っている。
彼は値踏みするような目で、澪のポスターではなく、澪自身を上から下へと舐めた。
「少し難しい顔をしているじゃないか。やはり、こういう場は疲れるだろう? どうだね、この後。少し静かな場所で、君の研究の……『将来性』について語り合わないか」
彼の言う”将来性”が、研究のことではないことは明白だった。
澪の胃の腑が冷たくなる。
もしここで頷けば、研究費は安泰かもしれない。プロジェクトが廃止されることもなく、あのサーバーも高額なGPUクラスターも使い続けることができるだろう。けれど、その代償として差し出すものは、彼女の”公正さ”そのものだ。
「……申し訳ありません。データの再検証が残っていますので」
澪は精一杯の拒絶を込めて、視線を逸らした。
「まあ、いい。君も大人になれば分かる時が来るさ。理想だけじゃ、電気代も払えないということがね」
権田原はニヤリと目を細めてから、ただそれだけを言い捨てて、人混みの中へ消えていった。
最悪だ。
澪は深く息を吐き出した。
周囲のブースでは、学生たちがディープラーニングの最新モデルを発表している。人間の脳にある神経回路の仕組みを模したニューラルネットワークを、
それに比べて、私の研究は。
ポスターの中央で、QNNの干渉項が描く複雑なフラクタル模様が、今はただの落書きのように見えてくる。
「……撤収しよう」
セッションの終了時刻まであと15分。もう誰も来ないだろう。
澪がポスターの方に眼を戻した時だった。
ふと、空気が変わった気がした。
会場の喧騒が、一瞬だけ遠のいたような錯覚。
一人の女性が、澪のポスターの真正面に立っている。
年齢不詳。20代の半ばに見えるけれど、もっと年上のような落ち着きも感じる。
外に跳ねるようなウェーブの掛かった、栗色のショートヘア。ダークグレーのタイトスカートに、同色のジャケット。服装に飾り気はないが、仕立ての良さが滲み出ている。そして何より目を引いたのは、白いブラウスの襟元で揺れる、翠の留め石がついた組紐――ループタイだ。
彼女は身じろぎもせず、ポスターの下部に小さく記載された数式、まさに澪が最も苦心した”ハミルトニアンの倫理項”を凝視していた。
ただ見ているのではない。”読んでいる”のだ。
小説を読むように、あるいは楽譜を追うように、数式の裏にある物語を読み解こうとしている。その瞳は、先ほどの研究者たちのような批判的な色ではなく、深い森のような豊かさが広がっている。
澪の手が止まる。
鼓動が、不意に高鳴った。
あの人だ。いや、違うかもしれない。でも、あの視線の動き方は。
彼女の視線が、数式からゆっくりと上がり、ポスター中央のフラクタル模様へ移動する。そして、そこで止まった。わずかに、本当にわずかにだが、彼女の口の端が持ち上がったように見えた。
「……なにか面白いところはありましたか? 私、発表者の霧島澪です。この
最後に、本当に関心を持ってくれる人に出会えるのなら、嬉しい。そう思って、澪は声をかけた。
そこで返ってきたのは、思ってもみなかった返答だった。
「ありがとうございます、お話をお伺いしていいですか?」
礼儀正しい型どおりの挨拶に続いたのは、澪の研究を鋭く突く一撃。
「ざっと拝見したところ……倫理判断に量子性という揺らぎを乗せることで初期の探索ノイズを上げて、アニーリングで局所最適化に陥るリスクを減らしているのかなと拝見しました」
澪は、目を見張る。息を呑む音が、自分でも聞こえた。
通じた。
この人は、あの一行の数式から、私の意図を完全に読み取ったのだ。
通常のAI学習における最大の問題点の一つが”局所最適解”への陥落だ。
これは、例えるなら”霧の中の山登り”のようなものだ。
最良の答えにあたる一番高い山頂を目指しているはずが、視界が悪いせいで手近にある小高い丘の頂上に着いただけで”ここが一番高い場所だ!”と勘違いして満足してしまう。それが局所最適解。
社会における”倫理”も同じだ。多数派の意見や、過去の偏ったデータという”小高い丘”に安住してしまえば、それは差別や偏見を肯定することになる。
それを防ぐために澪が導入したのが、”
アニーリングとは、金属を熱してゆっくり冷やすことで構造を安定させる技術。そして情報処理の世界では、”意図的にシステムを揺さぶる”ことを意味する。
始めに高い自由を与えて様々な可能性を探索させ、次第に自由という”温度”を低くしていくことで、大域的な最適解を安定して活用する。その動力に”量子の揺らぎ”を使うのが、澪のアルゴリズムの真髄だった。
彼女はそれを、一瞬で見抜いた。
「……はい、それに加えて『トンネル効果』も狙っています。人間の主観的なバイアスという『小さな丘』にAIが囚われないよう、量子の揺らぎで常に視野を広げ、トンネルを使って『最高の頂点』を目指すようにしているんです」
古典物理学では、エネルギーが足りなければ、障壁は越えられない。でも粒子が同時に波でもある量子力学では、粒子が本来は越えられないはずのエネルギー障壁を、波としての確率分布がその向こうに滲み出すのを利用して、”トンネルを掘るように”通り抜けることができる。
澪の倫理は、このトンネルも使って差別や偏見という
澪が答えると、女性は翠の瞳をさらに輝かせ、次なる言葉を紡いだ。それは質問というより、共同研究者からの提案のような響きを持っていた。
「なるほど、素晴らしい着眼点です。ただ……実装において、本当に『量子の実在』にこだわる必要はあるのでしょうか? 物理的な量子デバイスを使わずとも、統計的に表れる量子性をうまくコントロールするようなアプローチも考えられるのかな、とも感じました」
再び、衝撃が走る。
彼女の指摘は、まさに澪が直面している”計算コスト”の問題への突破口を示唆していた。
本物の量子を使うのは、現在の技術ではトレードオフが多すぎる。ならば、”量子の振る舞い”を模した数式を、既存のコンピュータ上で走らせればいいのではないか?
それは、本物のサイコロを振り続ける代わりに、計算式でできた擬似的なサイコロを使うようなものだ。結果が同じなら、その方が圧倒的に速く、実用的だ。
(この女性は、話せる!)
その内側に震えを感じながら、澪は静かに一歩、側に寄る。まるで三月兎を追いかけた少女の踏み出した、始まりの一歩のように。
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