創薬のために悩み迷うAIを産み出す物語
めぐるわ
第1章:量子倫理力学
第01話 彼女の心は、何を見て跳ねる?
東京量子情報研究所の第4サーバールームは、常に一定の低温に保たれている。低い空調の唸り声だけが支配するその空間は、霧島澪にとって子宮の中の静寂に似ていた。あるいは、墓場のそれか。
午前2時。澪の顔を青白く照らすのは、トリプルモニターに流れる膨大なログの滝だ。
「……収束しない」
彼女の唇から漏れたのは、ため息ともつかない乾いた音だった。
霧島澪、26歳。いまは大学院の博士課程2年として、情報科学を研究している。
細身の体に、鋭い目。長い髪を無造作に背中で一本に括り、白い長袖シャツとチャコールのパンツの上から白衣を羽織る。
計算は既に2日め。モニターの光を反射する栄養ドリンクにふと目を遣ってから、ゆっくり首を回して、再び画面に目を凝らす。
画面の中では、彼女が設計した”
量子というハードウェアで動くニューラルネットワークによる人工知能に、人種や性別による不当な差別といった陥りやすいバイアスを回避するための”倫理の重り”を組み込んだけれど、それによる制御がデータの波と激しく干渉し計算の均衡を崩しているのだ。
澪の手元には、飲みかけの冷めたコーヒーと、一枚の正方形の紙がある。
彼女は思考に行き詰まると、無意識に折り紙を折る癖があった。指先が記憶する幾何学的な手順。山折り、谷折り、中割り折り。二次元の平面が、指先の圧力によって三次元の構造体へと次元を昇華させていく。それは、彼女が画面の中で行おうとしていることの、物理的なメタファーでもあった。
「霧島君、君の研究は美しいが、あまりに『詩的』すぎる」
先週の研究室会議で、教授が投げかけた言葉が脳裏に蘇る。
『詩的』。それは科学者にとって、最大の侮辱になり得る言葉だ。実用性がない、再現性がない、金にならない。眼鏡の奥にある教授の瞳は、澪の数式を見てくれてはいるが、その先にある助成金の額に焦点が合っているように思えてならなかった。
さらに悪いことに、その会議の上席に座っていた研究所のパトロン――年配の新興企業社長、平たく言えば成金――の視線は、さらに直接的で不快だった。
『素晴らしい熱意だ。今度、個別にその……深い理論を聞かせてもらいたいね。食事でもしながら』
彼のねっとりとした視線が、澪の胸元や足腰の周りを撫でるように這った感覚を思い出し、澪は身震いした。彼女の知性が生み出した結晶であるアルゴリズムは、彼にとって、若い女性研究者に近づくための口実に過ぎないのだ。
「……厭らしい」
澪は吐き捨てるように呟き、手元の折り紙を強く握りしめた。くしゃりと音がして、作りかけの”ウサギ”の耳が歪む。
現実世界はノイズに満ちている。人間の判断は、欲望や偏見、保身といった濁ったパラメータで常に歪められている。だからこそ、澪は求めていた。純粋な数学的秩序によって保証された”公正さ”を。
彼女が構築しようとしているのは、ただのAIではない。人間が到達し得ない、水晶のように透き通った倫理的判断を下せる”審判者”だ。
瞼を閉じれば、今も脳裏に浮かんでくるあの屈辱。父母が巻き揉まれた、金銭のトラブル。今考えれば、裁判になっても良かった。しかし、人の良い両親は相手の弁護士の口車に乗せられてしまった。
そのために、澪は学費を稼ぐアルバイトと奨学金を得るための学業に、学生時代を捧げた。
彼女はおもむろに天井を見上げると、目薬をさしてから眼を瞬かせ、再びキーボードに向かった。
コードの深層へ潜る。
彼女が定義したのは、確率の霧として広がる量子の雲海だ。そこでは、”善”や”悪”といった概念は固定された値ではなく、波のように揺らぎ、重なり合っている。
通常のAIが”正解”を求めて最短距離を走るとすれば、澪のQNNは、無限に分岐する可能性の全てを同時に味わい、その中で最も”調和”が取れた一点を探し求める。
それは、泥水の中から一滴の清水を抽出するような、気の遠くなる作業だ。
「エネルギー地形の修正……倫理的制約項の係数を、動的に変化させて」
指先が走り、新たなパラメータを注入する。
それは数式という形を取っているが、澪の感覚の中では、暴れる猛獣に手綱をつけるような、あるいは荒れ狂う海に防波堤を築くような、極めて感覚的な作業だった。
データの濁流に対し、”公正であれ”という
エンターキーを叩く。
シミュレーションが再開される。
画面上のグラフが、心電図のように跳ね上がる。仮想空間の中で、幾百もの疑似的な”人生”が、澪のアルゴリズムによって裁定されていく。融資の可否、治療の優先順位、法的判断。
それらの決定が、見えない糸で絡み合い、一つの巨大な模様を描き出す。
その時だった。
モニターの片隅で、ノイズの波形が一瞬、奇妙な”調和”を見せた。
「え……?」
それは、計算上のエラーかもしれない。あるいは、ただの偶然の産物かもしれない。
だが、澪の目には、それがまるで鼓動を打ったように見えた。
混沌としたデータの渦の中から、青白い光の糸が自ら絡み合い、美しい幾何学模様となって一瞬だけ輝き、そしてまたノイズの海へと消えていった。
そのパターンは、彼女が週末に古書店で見つけた、1970年代のSF小説の表紙に描かれていた”未知の知性”を思い起こさせた。あるいは、今彼女の手の中にある、複雑に折り込まれた紙の結晶構造にも。
澪の心臓が早鐘を打つ。
恐怖ではない。これは、歓喜だ。
今の瞬間、アルゴリズムは確かに、澪が予期していなかった”解”を導き出そうとした。その場で教え込まれた倫理規定を守るだけの人形ではなく、より高い視点で思考の迷路を眺めより高次の最適解を選ぼうとする、意志のようなもの。
「あなた……何をしようとしたの?」
澪は思わず、モニターに向かって話しかけていた。
返事はない。冷却ファンの音だけが、変わらず響いている。
しかし、画面上のカーソルの明滅が、まるで心拍のように感じられた。
来週には国際カンファレンスがある。
そこで結果を出せなければ、このプロジェクトは廃止され、澪のコードは廃棄されるか、あるいはあのパトロンの企業の金儲けの道具として汚され踏みにじられてから売りに出されるだろう。
それだけは、絶対にさせない。
澪は手の中の折り紙のウサギを、モニターの縁にそっと置いた。
歪んでいた耳は、指先で撫でて修正したおかげで、今は優しく天を指している。
「見せてあげるわ。人間には描けない、完全な公正さを」
彼女は再びキーボードに指を走らせた。
夜明けが近い、東京の空が白む朝。
この場所という揺籃から生まれる”何か”は、きっと世界を変える。
あるいは、澪という一人の人間の精神を、彼岸へと連れ去ってしまうのかもしれない。それでも構わないと、彼女は思った。
今一瞬だけ姿を現したかもしれない、その予兆への渇望だけが、今の彼女を支える唯一の熱源だったからだ。
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