服だけが廊下を横切る

ソコニ

1話完結

最初に聞こえたのは、ビニールが擦れる音だった。

深夜2時。私が夜勤から帰ると、廊下の奥から近づいてくる。

誰もいないのに。


私が越してきた県営住宅は、築40年を超えている。エレベーターはなく、階段は錆び、廊下の蛍光灯は三つに一つしか点いていない。

住人のほとんどが高齢者で、夜は静まり返っている。

だから、その音は異常なほど目立った。

ビニール袋を引きずるような、けれど規則的な音。

足音ではない。布が床を滑る音に近い。

私が立ち止まると、音も止まった。

数秒の沈黙。

そして再び、ずるり、ずるり、と動き出す。

角を曲がった瞬間、それを見た。


紺色のブレザーと、チェックのスカート。

白いブラウス。黒いローファー。

全てが"誰も着ていないのに"、人の形を保ったまま歩いていた。

中身は空洞だ。

だが服は、まるで透明な誰かが着ているかのように自然に揺れ、袖が前後に振れ、スカートの裾が風もないのにひらりと動く。

そして――全身が濡れていた。

袖口から、ぽたぽたと水が滴り、廊下に黒い染みを残していく。

生乾きの臭いが鼻をつく。カビと、少しだけ鉄の匂い。

私は息を止めた。

制服は私の横を通り過ぎ、階段へと消えていった。

ずるり、ずるり。

音だけが遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


翌朝、管理人に尋ねた。

「昨夜、廊下で誰か見ませんでしたか?」

管理人は首を振った。

「誰もいませんよ。ただ――」

彼は少し言いよどんだ。

「廊下、また濡れてたでしょう?」

私は黙って頷いた。

「あれ、拭いても毎晩出るんです。誰が濡らしてるのか、わからない」


その日の夕方、隣の部屋のおばあさんが話しかけてきた。

「あんた、見たんだね」

私は驚いて振り返った。

「何をですか?」

「制服だよ。もう10年以上、あれは歩いてる」

おばあさんは小さく息を吐いた。

「昔この団地で、女子中学生が行方不明になったんだ。梅雨の時期でね。

見つかったのは一週間後。団地裏の調整池で、制服だけが浮いてた」

私の背筋が凍る。

「身体は?」

「出なかった。服だけ。それも、まるで脱がされたみたいに綺麗に揃って」

おばあさんは目を伏せた。

「警察は事故だって言ったけど、誰も信じちゃいない。

あの子の制服は、今も自分で歩いて帰ろうとしてるんだよ」


その夜。

私は眠れずにいた。窓の外は雨。じっとりとした湿気が部屋に満ちている。

午前3時を回った頃、玄関の外で音がした。

ずるり。

ずるり。

私は布団の中で固まった。

音は私の部屋の前で止まった。

そして――ドアノブが、ゆっくりと回った。

鍵はかけている。でもノブは回り続ける。

まるで、"鍵の存在に気づいていない"かのように。

数秒後、音は去った。

階段を降りていく。ずるり、ずるり。

私は震える手でスマホのライトをつけ、ドアスコープを覗いた。

廊下には誰もいない。

ただ――玄関の前の床が、濡れていた。


翌朝。

ドアを開けると、何かが置かれていた。

私のコンビニ制服だった。

昨夜、仕事後に洗濯機に入れたはずの――

びしょ濡れで、生乾きの臭いを放つ、あの制服。

袖が、まるで誰かが腕を通したまま抜けなかったように、ねじれて固まっていた。

私は震えながら、それを拾い上げようとした。

その時――

胸ポケットから、水が一滴、ぽたりと落ちた。

そして中から、小さな紙切れが滲んで見えた。

私は指でそれを引き抜いた。

古びた生徒手帳の写真欄。

顔は水で滲んで判別できない。

ただ一つだけ、はっきりと読める文字があった。

――名前欄に、"私"と同じ苗字が書かれていた。


[終]

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